高尾山古墳築造までの沼津
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
「高尾山古墳」の記事における「高尾山古墳築造までの沼津」の解説
高尾山古墳周辺では、大方の旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡は愛鷹山麓にある。これは高尾山古墳の東側から南側にかけては、縄文末期に発生した富士山の大規模な山体崩壊以前は海域であり、また西側も浮島沼の形成が進む前はやはり海であったためである。しかし砂州の形成が進みだした縄文時代中期後葉以降の遺跡は高尾山古墳西側で見つかっている。 沼津市周辺の縄文時代晩期末から弥生時代にかけての遺跡は少なく規模も小規模である。当時の集落は弥生時代に入っても、農業より前時代の縄文時代を引き継いだ採集・狩猟を主たる生業としていたと考えられている。紀元前2世紀頃の弥生時代中期中葉以降になると、農耕を生業とする集落が発達するようになる。この頃、関東地方では近畿や伊勢湾地方など、西方からもたらされたと考えられる農業技術を基盤とした大規模な集落が見られるようになっており、沼津市周辺の弥生時代中期中葉の遺跡からは関東地方との結びつきを示す土器が発掘されている。そして紀元前1世紀頃の弥生時代中期後葉になると、前時代よりも多くの集落が営まれた様子が確認されている。 弥生時代後期から古墳時代にかけて、静岡県東部域は多様性に富む複雑な地形に制限を受けながらも、富士山麓、浮島沼周辺、愛鷹山周辺、狩野川流域と田方平野に、それぞれ特徴的な集落が発展した。高尾山古墳周辺では弥生時代後期前葉、集落は主として黄瀬川扇状地上、浮島沼を形成する砂州上、愛鷹山の丘陵と浮島沼の低地との境界周辺に発達した。 弥生時代後期後葉の静岡県では大規模な集落の再編があったことが確認されている。弥生時代後期後葉、高尾山古墳周辺の集落にも大きな変化が訪れる。これまでの集落と入れ替わるように、標高約75メートルから約200メートルの愛鷹山丘陵地の約2キロメートル四方に、多くの集落が集中する足高尾上遺跡群が形成されたのである。 静岡県下で弥生時代後期後葉に確認されている集落の再編は、平野部の集落が消滅、縮小し、一方丘陵地帯の集落が増加するという、一見、高尾山古墳周辺と同様の経緯を辿っているが、足高尾上遺跡群のような標高が高い場所に集落があるという事例はまれである。集落の成立については、これまで低地に住んでいた人々が愛鷹山の丘陵地へと移住して足高尾上遺跡群の集落を形成したものと考えられているが、なぜこのように標高が高い丘陵上に集落が集中するようになったのか、はっきりとした理由はわからない。足高尾上遺跡群は住居跡の他、畑作を行っていたと考えられる耕作地跡、そして方形周溝墓が検出されており、住居、生産施設、墓域が備わっていることが明らかとなっている。そして遺跡群の北側には丘陵地の尾根を切る形で大規模なV字溝が掘られていた。また足高尾上遺跡群の特徴として発掘された土器の多くが在地系のもので、南関東系、東海系の土器が見られるもののその数は多くないという傾向が挙げられ、このことから比較的保守的な集落のあり方が想定されている。 足高尾上遺跡群は弥生時代後期後葉に形成され、古墳時代初頭まで継続する。つまり想定される高尾山古墳の築造年代前後まで集落が継続していたと考えられている。集落の存在時期と古墳の築造時期が重なる上に、集落群の北側の大規模なV字溝の建築を行うなど、足高尾上遺跡群の集落群は統制が取れたリーダーシップのもとにあったとして、高尾山古墳の築造に大きくかかわっていたと考える意見があり。また足高尾上遺跡群は高尾山古墳の築造に間接的に関わっていたのではないかとの説もある、また愛鷹山丘陵部の足高尾上遺跡群、浮島沼周辺の集落、そして狩野川や田方平野の集落との繋がりの中で、高尾山古墳を造営する集団としてのまとまりを形成していったのではないかと見られている。 一方、弥生時代後期以降、狩野川流域や現在三島市や伊豆の国市である田方平野でも、多くの集落が発達するようになる。高尾山古墳の周辺と同じく、やはり弥生時代後期後葉にはいったん丘陵地への集落の移動があったと推定される。
※この「高尾山古墳築造までの沼津」の解説は、「高尾山古墳」の解説の一部です。
「高尾山古墳築造までの沼津」を含む「高尾山古墳」の記事については、「高尾山古墳」の概要を参照ください。
- 高尾山古墳築造までの沼津のページへのリンク