高尾山古墳以後の古墳築造と珠流河国造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
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高尾山古墳の築造に続いて東駿河の地で造営されたと考えられている古墳は、沼津市松長の神明塚古墳である。神明塚古墳は田子の浦砂丘上に築造された墳丘長52.5メートルの前方後円墳で、古墳時代前期前半の造営と考えられている。神明塚古墳に続く古墳は現状でははっきりとしていないが、高尾山古墳に近い愛鷹山麓にある子ノ神古墳が有力視されている。子ノ神古墳は墳丘長64メートルの前方後円墳と考えられており、沼津の地に高尾山古墳を初代とする3代の首長を葬った可能性が示唆されている。また高尾山古墳に続いて築造されたと考えられる神明塚古墳が前方後円墳である事実は、ヤマト王権との直接的な関係が成立した事実を示していると考えられている。 古墳時代前期前半の高尾山古墳の築造に続いて、沼津で神明塚古墳、子ノ神古墳が築造された後、北伊豆や現在の富士市付近で古墳の築造が行われるようになると考えられている。北伊豆地域では墳丘長約70メートルの前方後円墳である三島市の向山16号墳、そして富士市周辺では墳丘長90メートルを超える前方後方墳の浅間古墳、続いて墳丘長約60メートルの前方後円墳である東坂古墳が築造される。このように東駿河の首長権は、沼津地域から北伊豆、そして富士市周辺と移動していった流れが考えられる。 また東駿河の地には後に珠流河国造の領域となったと考えられるが、東駿河の古墳の築造状況から珠流河国造の萌芽ともいうべき地域統合が見られることは注目される。中でも高尾山古墳が築造された沼津市周辺は古墳時代以降、680年頃に駿河国から伊豆国が分離されるまでは駿河の中心地として機能していた。
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