ホケノ山古墳とは? わかりやすく解説

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ホケノ山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/27 22:06 UTC 版)

ホケノ山古墳
空中写真
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)
所属 纒向古墳群
所在地 奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山
位置 北緯34度32分23.5秒 東経135度50分41.6秒 / 北緯34.539861度 東経135.844889度 / 34.539861; 135.844889
形状 帆立貝形古墳纒向型前方後円墳
規模 墳丘長80m
埋葬施設 後円部、前方部[1]
出土品 画文帯神獣鏡・鏡片・鉄製刀剣類・銅鏃・鉄製農工具ほか[1]
築造時期 3世紀中頃[1]
4世紀前半の可能性[2]
被葬者 (伝)豊鍬入姫命
史跡 国の史跡纒向古墳群」に包含
地図
ホケノ山
古墳
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ホケノ山古墳全景。右側が後円部。

ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は帆立貝形古墳纒向型前方後円墳)。国の史跡に指定され(史跡「纒向古墳群」のうち)、出土品は国の重要文化財に指定されている。

概要

石棺(橿考研附属博物館展示)
  • 所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。
  • 被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。
  • 築造時期:以前から豊富な鉄鏃や鉄製刀剣類、鉄製農工具などの副葬品や埋葬施設の形式から4世紀の古墳と考えられてきた。しかし、桜井市纒向学研究センターは築造を邪馬台国の時代(3世紀中頃)に重なるとしている[1]奈良県立橿原考古学研究所は、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃としつつ[3][4]、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含むと報告している[2]。邪馬台国の会はこの測定結果と、石囲い木槨(割竹形木槨)を持つことが『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし。」という記述と矛盾することから築造は4世紀であるとし、邪馬台国畿内説に対して疑問を呈している[5]。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている[6]
  • 墳形:纒向型前方後円墳葺石あり)[1]円墳に短い前方部を東南方向に付けている[7]
  • 規模:全長約80メートル。後円部径約55メートル(約60メートル[7])3段築成、前方部長約25メートル(約20メートル[7])、後円部高さ約8.5メートル、前方部高さ約3.5メートル[7]。周濠幅約10.5-17メートル[1](西側のほうが広い)。
  • 発掘調査:1999年(平成11年)9月から橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって実施され、2009年(平成20年)に調査報告がなされた(『ホケノ山古墳の研究』)。

埋葬施設

復元整備された前方部木棺直葬墓
  • 墳頂部(後円部)の中央から「石囲い木槨」出土[1][7]。大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設[7]。その内部にコウヤマキ製の5メートルの刳抜式木棺を納めた大規模な木槨[7]。広義の割竹形木槨。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいる。棺内は水銀朱で覆われていたと思われる。
  • 前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬している[1][7]。くびれ部に簡単な埋葬施設1基あり。
  • 上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室がある。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に営まれたものと考えられる[7]。石室全長14メートル以上[7]。玄室に組合式家形石棺[7]

副葬品・出土遺物

  • 大型(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
  • 中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
  • 銅鏃 約60本
  • 鉄鏃 約60本
  • 素環頭大刀 1口
  • 鉄製刀剣類 10口
  • 加飾壺
  • 画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
  • 画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡
  • 鉄製農工具
  • 二重口縁壺20体(庄内式)
  • 布留0式土器3点

文化財

重要文化財(国指定)

  • 奈良県ホケノ山古墳出土品(考古資料) - 2024年(令和6年)8月27日指定[8]
    • 画文帯神獣鏡 2面
    • 青銅製品 一括
    • 鉄製品 一括
    • 土師器 15点

重要文化財の指定以前、出土品は「ホケノ山古墳出土品」として2013年(平成25年)3月29日に奈良県指定有形文化財に指定されていた[9]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 纒向遺跡ってどんな遺跡?”. 桜井市纒向学研究センター. 2013年5月4日閲覧。
  2. ^ a b 奥山 2008, pp. 191–192.
  3. ^ 岡林, 水野 & 北山 2008, pp. 289–291.
  4. ^ ホケノ山古墳と箸墓古墳”. 橿原考古学研究所附属博物館. 2019年10月28日閲覧。
  5. ^ 『ホケノ山古墳の年代について』邪馬台国の会
  6. ^ 纒向型前方後円墳」参照のこと。
  7. ^ a b c d e f g h i j k 大和古墳群調査委員会. “桜井市 ホケノ山古墳(第4次調査) 現地説明会資料(2000年4月)”. 奈良県立橿原考古学研究所. 2013年5月4日閲覧。
  8. ^ 令和6年8月27日文部科学省告示第121号。
  9. ^ 奈良県指定文化財一覧 (PDF) (奈良県ホームページ)。

参考文献

外部リンク


ホケノ山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 17:43 UTC 版)

纒向古墳群」の記事における「ホケノ山古墳」の解説

桜井市大字箸中字ホケノ山に所在し三輪山西山麓、箸墓古墳東側位置する葺石をともなう。1999年9月から奈良県立橿原考古学研究所桜井市教育委員会によって発掘調査実施された。墳頂部中央から「石囲い木槨」を検出した大きな土壙内に内側長さ約7メートル、幅約2.7メートル石室状の施設で、その内部にコウヤマキ製の約5メートルの刳抜式(くりぬきしき)木棺割竹形木棺もしくは舟形木棺納めた大規模な木槨である。天井木材渡しその上に地元川原石積んでいる。水銀覆われていたと思われる土器は、庄内式の二重口縁壺が20出土している。

※この「ホケノ山古墳」の解説は、「纒向古墳群」の解説の一部です。
「ホケノ山古墳」を含む「纒向古墳群」の記事については、「纒向古墳群」の概要を参照ください。

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