発掘結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 05:11 UTC 版)
国庁跡が松江市大草町の六所神社周辺であることが判明した。国庁は、一辺167メートルの区画を大溝で区切り、その南半分に南北96メートル、東西72メートルの政庁区画を取り、その中に正殿・脇殿などを配置し、北半分も溝によって仕切られ官衙建物が並んでいたと推定されている。遺物では「大原評(こおり)□部□□」「進上兵士財□…」「□□二百代」などと記された木簡、「厨」(くりや)「酒杯」「少目」(しょうさかん)などと書かれた墨書土器、「門」「社辺」(こそべ)などの篦書き土器がある。「評」という木簡から、出雲国庁が大宝元年(701年)以前に溯って建造されたと考えられる。その他、柱の一部、軒瓦類、大量の食器類、硯、分銅、玉作用の原石、砥石、和同開珎(銀貨)、春という文字を刻んだ銅印などが出土している。
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発掘結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 21:57 UTC 版)
発掘調査は1961年(昭和36年) - 1964年(昭和39年)を第1次調査として、その後も続けられている。調査から国府域は方八町(約850メートル四方)と推測され、南北の境界や西北隅・西南隅が溝や築地で区画されていたことや朱雀大路が付けられていたこともが分かった。他の多くの国府は、平安時代後期から鎌倉時代始めには衰退していったが、周防の国府は1186年(文治2年)に東大寺造営料国となったことから、現在まで比較的良好な状態で原型が保たれていた。そのため、全国的にも貴重な遺跡であるとして早々に国の史跡指定を受けたとされる。東北・東南・西南・西北の各隅には、周防国庁跡の碑がそれぞれ建てられている。 東北隅の建物跡 出土瓦防府市文化財郷土資料館展示。
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発掘結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 21:56 UTC 版)
1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。これらの遺構は、石積み遺構や溝に囲まれており、中心殿舎は、桁行5間×梁間4間で南北の両面に廂を持つ掘立柱建物と後方約7、8メートルに軸線を同じくして桁行5間×梁行2間の切妻型の掘立柱建物である。中心殿舎の南側約750メートルの所に桁行7間×梁間3間以上の東西棟の掘建柱建物(中世に下る)が国庁の南限を示していると考えられている。 これら中心遺構の年代は、近くの溝から出土した「仁和2年假分」(886年、けぶん)の墨書を持つ題簽(だいせん)、木簡やその他の資料から、平安時代初期以降のものと考えられている。
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発掘結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 21:56 UTC 版)
発掘調査から、国庁範囲は一町区画を持ち、周りを掘で囲み、中央に前殿(東西棟)、その後方に正殿(未調査)を配置し、前殿の東・西に長大な南北棟の脇殿を対峙させている四周の各辺の中央に門を設けていた。南門からは幅9メートルの大路が南方に向かって敷設されている。南大路である。この大路に面した西側に建物群が塀で囲まれている。官衙施設である。前殿は正面7間(22メートル)・側面2間(4.8メートル)の規模である。建て替えられている。 こうした建て替えから、大きく4つの時期に分けられる。1期は8世紀前半代、2期は8世紀後半頃から同末(延暦年間の初め)頃に焼失した、3期は9世紀代が中心、4期は10世紀に入って間もない頃まで機能していた。
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発掘結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/11 09:42 UTC 版)
発掘調査は、1969年(昭和44年)に柱穴状の落ち込み群が確認されたことから始まった。柱穴郡の状況から大規模遺跡の存在が予想され、1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)の間、6次にわたって行われた。発掘調査の結果、国庁跡と断定された。 本国庁跡は、幅2メートル、深さ1メートルほどの溝によって区画された外郭(曹司(ぞうし)地区)と、その中央部の内郭(国衙政庁地区)からなる。外郭の広さは東西273メートル、南北227メートルの長方形で東辺に東西51メートル、南北245メートルの張り出し部が取り付く。 内郭の北方と西方に官衙跡と考えられる建物群が検出されており、北方官衙は東西棟建物6軒と南北棟建物5軒、西方官衙は溝で区画された東西63メートル、南北53メートルの中に東西棟建物5軒と南北棟建物3軒が配置されている。両方とも掘立柱建物である。内郭の建物は、8世紀後半から10世紀の間に4時期の変遷が認められる。 A期は、8世紀後半。内郭は掘立柱塀によって、東西84メートル、南北94.5メートルに区画される。その中に南から北へ南門、前殿、正殿、後殿を配し、東西に長大な脇殿と、脇殿の南側の楼閣風建物を設けている。建物はすべて掘立柱建物で、左右対称に配置されている。 B期は、9世紀初頭。正殿、前殿、後殿を同位置に建て替えるとともに、東西脇殿に北側に新規の楼閣風建物を建てている。 C期は、9世紀中頃。内郭の外周に溝を彫り、内側に築地塀を巡らし、東西84メートル、南北106メートルに区画している。内郭内では前殿をなくし、南門と正殿との間をバラス敷きの舗道にしている。また、南門を除く他の建物を礎石建ちに造り替えている。 D期は、9世紀末から10世紀初頭。内郭を区画する溝を埋めて、新たに南と西に溝を掘り、東西111メートル、南北126メートルとして規模を拡張している。 外郭内は部分的発掘調査のため、全体は不明である。
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発掘結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/15 10:12 UTC 版)
その発表を裏付けたのは、1963年(昭和38年)と1965年(昭和40年)の発掘調査で、近江国庁の中枢部が確認された。国府の広さは8町から9町四方で、その南端中央部に国庁があり、東西2町・南北3町であったと推測されている。国庁地区の中心部には四方を築地(ついじ)塀で囲まれた内郭(政庁)がある。東西72.8メートル(240尺=3分の2町)、南北は推定109メートル(360尺=1町)である。この政庁の建物は瓦積基壇からなる4軒の瓦葺きの建物で、国庁の中軸線を中心に左右対称に配置されていた。基壇の上に東西7間(23.1メートル)、南北5間(15.0メートル)と推定される正殿の前殿があり、その後に南北を1間分小さくしたような正殿の後殿があり、廊が付けられている。前殿の両側には南北に長く延びる東西の脇殿が配置されている。基壇の規模は南北48.5メートル、東西9.2メートルである。この脇殿も前殿と廊で結ばれている。 この政庁の遺構は前後2時期に区分される。前期は奈良時代中頃、後期は同時代末から平安時代初期以降である。そして、10世紀末頃までは存続したと考えられている。 この近江国庁の政庁の発掘調査によって、地方行政機関の中枢部の様子が明らかにされ、その構造が中央政庁の平城宮の大極殿や朝堂院などの構造に似ており、また、共通する機能を持っていることも明らかになった。この後、近江国庁跡を参考にしながら、各国の国府の推定地や政庁の構造・変遷が明らかになりつつある。 国庁跡左手前に後殿、右奥に前殿。 築地(復元) 木製基壇(復元) 掘立柱建物跡
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発掘結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 04:09 UTC 版)
本国庁跡は、確認調査により久池井字五本杉で確認された。規模は、南北104.5メートル、東西77.2メートルである。建物は南北中軸線(約7度西に傾く)上に南から南門、前殿、正殿、後殿が並び、前殿の東西両側に各々2軒の脇殿が配置されている。また、正殿の左右に廊が取り付けられて、郭内を南北に二分している。南門は築地を内側にやや引いて八御門にしている。建物規模は前殿・後殿が7間×2間、正殿も同じ大きさで、これに各1間の4面廂がつき、9間×4間、脇殿は4棟とも7間×2間である。建て替えは前殿、後殿、脇殿がそれぞれ1回ずつ行われている。正殿と回廊は建て替えが認められないのは、後期に掘立柱建物から礎石建ちに変更されたためか。しかし、礎石は見つかっていない。南門は2回建て替えられ、礎石が一部残っている。建て替えは大きく前期・後期の二期に分かれるが、両期を通じて建物の規模や配置には基本的に変更なかったようである。 国庁築成時期は、出土した須恵器、土師器、多量の瓦などから、8世紀前半と推定されている。
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