外見・出自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:37 UTC 版)
曹操の外見は正史には書かれていない。『三国志』魏書武帝紀に、上述の太尉の橋玄が、放蕩時代の若き曹操の人相を見て、その異様さに驚愕し、妻子を託したいと語ったことが記される(橋玄は清廉なため蓄財がなく、その死後妻子は経済的に困窮した、三国志縁起では橋玄の遺児を美女の二喬とみなす)。野史には「形陋」「姿貌短小」とあり、『三国志演義』では、「身長七尺、細眼長髯」(身高161cm、細い目、長いひげ)とされる。中肉中背で、切れ長の涼しげな目をもち、壮年期以後は関羽のような長いひげをたくわえていたと考えられる。陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cmであった。曹家は名臣曹参の末裔を称しており、父の曹嵩もまた三公の一である太尉まで昇進したものの、祖父の曹騰が宦官で、曹嵩は養子だったことから、常に士大夫層からそのことを馬鹿にされていた。袁紹の幕下にいた陳琳は、曹操との戦いに向けた檄文の中で、曹操を「贅閹の遺醜」(「宦官という卑しい存在の倅」という意味)と罵倒している。このように、曹操の血筋や家柄は、彼の敵手であった袁紹・袁術ほど、他者に大きく先行するものではなかった。
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