発掘調査とその後
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1997年(平成9年)から翌年にかけて奈良県立橿原考古学研究所が行った第3次発掘調査で、三角縁神獣鏡33面とそれよりも少し古い画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見された。鏡を含めて埋葬当時の位置を保っていて、副葬品の配列方法とその意味がわかるものとなった。北東隅に大小2本の鉄棒をU字形に曲げた用途不明の鉄製品が立てかけられていた。大小2本の棒の間にはV字形の鉄製の管が、複数、付着または崩落し、この管で鋸歯状に大小のU字形鉄棒を結び付けていた形跡がある。 畿内前期古墳に多い頭位北向きで、木棺外の北側には朱塗りの木盾が斜めに立てかけられていた。棺外の北鏡は斜めに置かれた盾の上部に乗せられていたとみられる。木棺外の西側の北小口に近い部分に、鏃群があり、切先は南を向き、元は隙間に矢柄の束があったと推定する。その南に11点の刀・剣・ヤリがまとめて置かれていた。棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡と両側に刀1・剣1をおき、木棺外に東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を鏡面を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていた。被葬者の上半身を棺内、棺外の二重に鏡と刀剣でコの字形に取り囲み、この配列により呪術的な役割をしていたとみられる。三角縁神獣鏡のこの扱いにより、この鏡が葬式用に作成されたもので価値のあるものでは無い(つまり小林行雄による大和政権の配布説を否定)との見解を補強したとの解釈もある。[要出典][誰?]他に棺外の南側に、革を綴った胃だったとみられる約600点の大量の小札(こざね)、斧とヤリガンナの工具類、土師器などが配置してあった。玉類や腕装飾品類は出ていない。 後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、内法長約8.3メートル、北小口幅0.9メートル、高さ約1.7メートルで、二上山麓の春日山と芝山の板石を持ち送りに積んで合掌造状の天井を作り出している。石室内では、粘土棺床が設けられ、断面半円形の全長1メートル以上の刳抜式木棺が納められている。木棺には中央部の長さ2.8メートルの範囲のみ水銀朱を施し、両端はベンガラの赤色で塗られていた模様である。水銀朱のところに安置されていたものと考えられている。 古墳の石室は、通常は天井石で天井部を塞ぐことが多く、合掌造状の天井は珍しいが、この方法は地震に弱く、中世に起きたと思われる地震で天井部分が石室内に崩落し床面の上は板石によって覆われていた。後円部中央には竪穴式石室への鎌倉時代の大規模な盗掘坑があり、石室は大きく破壊されていた。しかし、これは大量の崩落石に阻まれ、空洞の残った南小口部分にだけ侵入したが、大部分は断念し、石室南小口以外には完全な形で副葬品が残されていた。つまり地震が盗掘者から副葬品を守ったことになる。室町時代後期に楊本氏(やなぎもとし)が黒塚古墳を利用して砦を築き、後に土市氏との争いで没落。その後に戦国時代には古墳に、1575年(天正3年)に松永久秀が柳本城を築き、後に織田信長臣下になり乱死。江戸時代信長の弟織田長益(有楽斎)の5男尚長が分知で柳本藩に。寛永年間に柳本城址に柳本陣屋を構築し柳本藩藩庁とした。その一部に黒塚古墳を取り込んだ。堀を転用し石垣も造成。江戸時代末まで続く。1998年調査で、後円部墳頂に長方形の本丸、前方部に向けて壇状に平坦面の曲輪を墳丘を削り数段造成。後円部の周囲には幅の狭い平坦面の帯曲輸を巡らせ、前方部の一番低い箇所に幅6.8メートル、深さ3.4メートルの堀を新たに掘削し、城砦としての機能を持たせていた。戦国時代から近世・幕末まで、武家以外は黒塚古墳には自由に立ち入れなかったため、その後の盗掘も防いだ説がある。 明治時代から、陣屋跡の大部分は、天理市立柳本小学校敷地となり、古墳は天理市によって整備が行われ、柳本公園となっているほか、古墳に隣接して竪穴式石室の実物大模型や全銅鏡のレプリカなどを展示する「天理市立黒塚古墳展示館」が設けられている。平成13年(2001年)1月29日国の史跡に指定された。また、出土品も平成16年(2004)に「奈良県黒塚古墳出土品」(奈良県立橿原考古学研究所所蔵)として重要文化財に指定されている。
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