車駕之古址古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/08 17:47 UTC 版)
車駕之古址古墳 | |
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所在地 | 和歌山県和歌山市木ノ本724番地 |
位置 | 北緯34度15分45秒 東経135度08分49秒 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長86m |
築造年代 | 5世紀後半 |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 金製勾玉 形象埴輪 |
史跡指定 | 1994年和歌山県指定史跡 |
車駕之古址古墳(しゃかのこしこふん)は、和歌山県和歌山市木ノ本に所在する古墳時代中期の前方後円墳。1990年代初めに住宅開発による事前の発掘調査が行われ、その重要さから保存されることになった。墳丘盛土内から国内唯一の金製の勾玉が出土している。
概要
和歌山平野の北西部、和泉山脈南側裾部の段丘上に所在しており、東西にある釜山古墳(円墳)、茶臼山古墳(前方後円墳)とともに釜山古墳群(木ノ本古墳群)を形成している。低い墳丘(以前から墳丘の上部が大きく削平されていたようである)の一部が畑として耕作されている他は雑木林がまばらに生える草地の状態であった。墳丘の周辺で発掘調査がされた時、墳丘から流出した大量の埴輪片が出土したことがあり、また後円部裾部が試掘調査されたことがある程度で本格的調査は行われたことはなかった。
消滅の危機と保存への動き
1988年に古墳の所在する場所で複数の開発業者により、宅地開発の動きがあり、地元の和歌山市教育委員会は、開発の断念を申し入れ、協議を重ねた。しかしながら、業者側の開発の意思は変わらず、宅地開発を前提とした全面発掘調査が行なわれることになった。1989年12月より調査が開始され、1991年まで3次にわたる発掘調査が行われた。その結果、段築の状況、葺石、造り出しの存在などが明らかにされたが、埋葬施設は確認されなかった。しかしながら、2次堆積層から金製勾玉1個が出土し、発掘調査の進展とともに、古墳への評価が高まり、各方面から古墳の保存と整備を求める要望書や陳情書が提出されるに到った。金製勾玉は韓国の新羅古墳などでは出土例はあるものの、国内の古墳では初の出土であった(沖縄県斎場御嶽遺跡からも出土例があるが時代が降ると思われる)。これを受け、当時の和歌山市長は古墳の保存を表明し、古墳のある場所を和歌山市が業者から買い取り、公有化されることとなった。
車駕古址古墳出土の金製勾玉
当古墳出土の金製勾玉は中空の構造で、長さ18ミリ、頭部径8ミリ、重さ1.6グラムで小ぶりながら精巧なつくりである。非破壊の方法で分析したところ、30パーセント以上の銀と微量の銅を含むことがわかった。これはほぼ16金にあたるという[1]。
墳丘および周濠と築造時期
3次にわたる発掘調査とその後の保存整備の調査により、墳丘の全長約86メートル、後円部直径約51メートル、前方部約62メートルあり、墳丘の周囲には周濠が存在したことが明らかとなった。周濠を含めた全長は112メートルとなる。周濠部分からは造り出し部から転落したと思われる埴輪類が出土している。埴輪には円筒埴輪だけでなく家形埴輪や蓋形埴輪が出土しており、さらに紀伊では初めて囲形埴輪が出土している。囲形埴輪は古墳時代の導水祭祀を忠実に表現したものと考えられる。周濠の外堤部の調査などで、外側に4-5メートルの溝が複数の箇所で検出されており、周濠は二重であった可能性も指摘されている[2]。 出土した埴輪などの資料から築造時期は5世紀第3四半期と考えられる。
車駕之古址古墳は1994年、和歌山県指定史跡に指定され、古墳とその周囲は古墳公園として整備されている。また金製勾玉と形象埴輪類を含む出土品は、1995年、県指定有形文化財に指定されている[3][4]。
参考文献
- 大野左千夫「車駕之古址古墳」『第3次埋蔵文化財白書』 日本考古学協会編 株式会社ケイ・アイ・メディア 2005年 92頁-94頁
- 村上隆「古代の黄金の世界」『発掘を科学する』 田中琢・佐原真編 岩波新書355 1994年 210頁
- 河内一浩「堀からみた紀伊の古墳」『紀伊考古学研究第7号』紀伊考古学研究会 2004年 45-48頁
脚注
- ^ 村上(1994)p.210
- ^ 河内(2004)pp.45-48
- ^ 大野(2005)pp.92-94
- ^ 指定年は文化財目録(和歌山県教育委員会サイト)による。
関連項目
外部リンク
- 和歌山市 車駕之古址古墳公園(和歌山タウン情報 和歌山どっとTV)
- 車駕之古址古墳のページへのリンク