政庁地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 12:52 UTC 版)
政庁地区の発掘調査は1943年(昭和18年)に行われたものを嚆矢とする。調査の結果、政庁地区においては3時期の遺構面が存在することが確かめられた。各遺構面の概要は下記のとおりである。 第1期 : 7世紀後半 - 8世紀初頭。大宰府政庁創建期(掘立柱建物群。古段階と新段階に細分される。) 第2期 : 8世紀初頭 - 10世紀中葉。朝堂院形式創建期(礎石建ち瓦葺き建物。政庁規模は、東西111.6メートル、南北188.4メートル、回廊規模は、東西111.1メートル、南北113.8メートル) 第3期 : 10世紀中葉 - 12世紀。朝堂院形式整備拡充期(礎石建ち瓦葺き建物) 政庁地区については、発掘調査以前には「現在見える礎石が創建時のもの」、「天慶4年(941年)の藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」、という考えが主流であった。前者の考えについては各遺構面が存在することによって否定され、後者については、第2期遺構面上に堆積する焼土層によって焼失の事実は証明されたものの、第3期の遺構がさらに規模を拡大して再建されていることが明らかとなり、現在では否定されている。 第1期から第2期への改築は、律令制度によって政府機関として確立したことに対応するものである。第3期は律令制度が弛緩している時期にあたるため、第2期より大規模な造作が行われていることに多くの研究者が驚かされたが、現在では、当時の政庁運営で中心的役割を担っていた在庁官人層の拡大に対応するものと理解されている。 中門跡 南門跡 政庁跡正面
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