地震・火災に伴う再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 00:02 UTC 版)
9世紀に入ると、律令国家の衰退に伴って国分寺は火災や地震などに見舞われ、衰退が進行した。819年には火災に遭い(『類聚国史』)、878年には大地震(相模・武蔵地震)で本尊など仏像が破損したうえ、地震直後の火災で焼失したという(『日本三代実録』)。 発掘結果からも、国分寺は激しい火災に見舞われたことが明らかになっている。塔跡の近くからは七重塔の水煙と判断される金属製品が見つかっており、創建当時の水煙、何らかの理由で落下後に修復を受けた水煙、創建当時のものが失われた後に再鋳された水煙の、合計3期があったと見られている。また塔や僧坊など相模国分寺の建物も3期に分けられるとされ、それぞれ初回建立時、819年の火災後の再建、878年の地震とそれに伴う火災後の再建によると見る説がある。 しかし発掘結果の解釈によっては、国分寺の建物が焼失してしまった後、再建された跡が見られないとし、878年以降の相模国分寺の再建を疑問視する説もある。この場合、『日本三代実録』の881年の相模国分寺再建の記事や、『日本紀略』の940年の「相模国分寺の仏像が雨のような大汗をかいた」との記事との整合性が問題となる。そのため、878年の大地震の後に相模国分寺は別の場所に再建されたと推測する説もある。この場合、相模国分寺跡の南東側高台にあった上の台廃寺(伝薬師堂)が、再建先の候補のひとつとなる。 一方、国分尼寺の方は873年に漢河寺という寺に国分尼寺を移転したが、878年の大地震で漢河寺が倒壊したため、881年にもとの国分尼寺に戻ったとの記録がある。発掘結果からもそれらの記述を裏付けるように、最初の礎石の上に建立された瓦葺の建物が焼失した後に、掘立柱の茅葺と推定される建物が再建されていることが判明している。最初の建物の焼失は発掘結果から9世紀後半と推定され、漢河寺への国分尼寺の移転は火事による焼失が原因であった可能性が指摘されている。なお国分尼寺については881年以後まもなく、再度漢河寺に移されたとの説もある。しかし現在のところ漢河寺があった場所は不明である。
※この「地震・火災に伴う再建」の解説は、「相模国分寺」の解説の一部です。
「地震・火災に伴う再建」を含む「相模国分寺」の記事については、「相模国分寺」の概要を参照ください。
- 地震・火災に伴う再建のページへのリンク