相模国分寺跡
相模国分寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 00:02 UTC 版)
僧寺跡は現在の国分寺から北西に約100メートルの場所にある。伽藍を区画する区画溝から、寺域は東西240メートル・南北は300メートルと見られている。東西160メートル・南北120メートルの回廊をめぐらしており、南の中門から正面に講堂があり、右側(東側)に金堂、左側(西側)には塔を備えた法隆寺式の伽藍配置をなす。講堂と中門は長方形をした回廊で繋がっており、講堂の北側には僧坊、そして国分寺の管理運営を担った建物と見られる建物群が発見されている。 塔 まず地表を一辺29メートル、深さ1メートル掘り下げ、そこに粘土質の褐色土と黒色土を交互に突き固める版築工法で土台を造成。掘り下げた部分の版築が地表に達すると、掘り込み部分の縁から3.75メートルより内側に、やはり版築で一辺20.4メートル、高さ1.35メートルの基壇を造成。この基壇に重量が数トンから十トンという大きな礎石を16個据え、その上に一辺の長さ10.7メートル、高さ約65メートルの七重塔を建てたと見られている。なお礎石は凝灰岩の巨礫であり、材質と礫の大きさから中津川の半原周辺から運ばれた可能性が最も高い。基壇はもともと凝灰岩の切石で覆われ、塔の南側と北側に階段が作られていたが、塔は再建されており、再建後の基壇は切石ではなく玉石積みとなって階段も南側のみになったと見られる。 金堂 塔の東側にあり、塔と同じく版築工法で作られた基壇に礎石が残っており、礎石の上に金堂の建物が建っていたことがわかる。金堂も塔と同じく基壇を切石で覆っていたものと考えられていたが、2005年に行われた金堂発掘の結果、石積みであったことが判明した。また、金堂の建物内に幅2.2メートルの高まりが存在した。これは須弥壇であったと見られていたが、やはり2005年に行われた金堂発掘の結果、高まりは須弥壇ではなく、後世相模国分寺跡が畑地として耕作されていた際に耕作されずに残された場所であったことが判明した。 講堂 塔と金堂の中間線の北側に位置する。やはり版築工法で作られた基壇の上に建物が建てられた。そして塔と金堂を囲むように講堂と中門を繋ぐ回廊があった。また塔の北西側には鐘楼跡、そして金堂の北側には経蔵跡と見られる建物も発見されている。 僧坊 講堂の北側に位置する。僧坊跡の北側には国分寺の維持管理を担っていたと思われる建物群が発見されている。 相模国分寺跡に礎石が残っていることは江戸時代から知られており、1841年の『新編相模国風土記稿』には、相模国分寺跡の礎石跡の記録が載せられている。1903年に礎石の調査が行われたのを皮切りに調査が続けられ、1918年から二年間をかけて神奈川県の補助金を受けて海老名村役場が相模国分寺跡の保存整備を行った。そして1921年3月3日には全国の国分寺跡としては初の史跡に指定された。 戦後、周辺の宅地開発などの開発が進められる中、1965年から1967年にかけて海老名町と神奈川県の合同調査が行われ、続いて1986年から1991年にかけて範囲を広げて発掘が行われた。そして2003年から2006年にかけて、これまで未調査の地域や再調査が必要な地域の発掘が行われた。また1989年度からは、相模国分寺跡の遺跡の保存整備事業が行われており、現在は相模国分寺跡歴史公園となっている。 塔跡 金堂跡 中門跡 僧坊跡
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