大廓式土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
高尾山古墳で数多く発掘され、中心的な土器であったと評価されている静岡県東部の在地型土器は、大廓式土器と呼ばれている。大廓式土器はこれまで静岡県東部で生産されてきた土器を基本として、各地から静岡県東部地域に搬入された外来土器の影響を受けて成立したと見られており、200年頃から300年頃にかけて生産されていたと考えられている。また主な生産拠点は狩野川下流域にあったと見られている。 大廓式土器は複合口縁壺、折返口縁壺、甕、高坏といった器種から構成され、中でも大型壺が特徴的なものとされる。また土器の胎土には縄文時代晩期に天城山のカワゴ平から伊豆東部火山群の活動の一環として噴出したカワゴ平軽石を含み、当時の他の大型壺よりも軽量という特徴がある。静岡県東部では大廓式土器の使用開始をもって古墳墳時代の幕開けと見なしている。また大廓式土器はその形態から、様式1から4までの4段階の様式変化があったとされている。 大廓式土器はその模倣品と考えられる土器を含めると、北は現在の宮城県、山形県、西は奈良県の纒向遺跡、大阪府という広い地域で発掘されている。しかし大廓式土器の製作が始まってからしばらくの間、様式1から2の時期にかけては、産地である静岡県東部からの搬出は限定的であったとされる。数少ない例外としては埼玉県桶川市、山梨県甲府市、神奈川県伊勢原市と、西三河の矢作川流域、伊勢の雲出川流域が挙げられる。 3世紀半ば、様式3の時期になると大廓式土器は土器の形式に多くの新しい要素が加わるとともに、急速に各地へと拡散していく。特に静岡県よりも東側の分布が目立つが、そのほとんどが太平洋側であり、日本海側ではほとんど発見されていないという特徴がある。また一部の遺跡では大廓式土器を構成する各種の器種が発掘されているが、多くの場合、発掘されるのは大型の壺のみである。これは前述のように当時としては最軽量であった大廓式の大型壺は、移送しやすかったというメリットがあったと考えられるとともに、大型壺のみの移動ということは、あくまで製品としての大型壺の移動であって、壺を作る人間の移動という要素は少なかったことが予想される。一方、数は少ないながら、埼玉県川島町の白井沼遺跡や伊勢の雲出川流域のように複数の器種が発掘されている例もあり、そのような地域では人の移住も想定されている。なお大廓式の大型壺は、東日本ではまだ築造されていた弥生時代式の方形周溝墓で執り行われた祭祀で用いられたとの説がある。 大廓式土器の出土状況から、土器の移動ルートが複数想定されている。一つは富士川を遡って甲斐、信濃方面へ向かうルート。一つは沿岸部を東へ向けて移送した後、三浦半島付近から上総方面を経て印旛沼や手賀沼付近を通って鬼怒川沿いに北上するか、または三浦半島付近から東京湾に入り、荒川や旧利根川を遡るルート。そして西側については、現在の名古屋市周辺、近江からは大廓式土器が全く出土しないことから、駿河から遠江、それから三河付近から知多半島を海路で伊勢湾を渡り、伊勢から鈴鹿山脈を越えて畿内に入るルートが想定されている。 高尾山古墳では、出現期の様式1から最終段階の様式4までの大廓式土器が出土している。前述のように高尾山古墳から出土した土器は古墳とは直接関係が無く、前時代の住居跡からの混入ではないかとの意見もある。それに対して、高尾山古墳出土の大廓式土器は全て古墳に関係しており、古墳の築造こそ様式1の時代に行われたものの、多くの特徴ある様式3の土器が検出されていることや、主体部上部から検出された大廓式の様式3の土器が、埋葬者を意識して配置されていると考えられることから、様式3の時代に古墳祭祀の画期、つまり被葬者の埋葬が行われ、その後、様式4の時代には墓前において祭祀が行われていたとの見解が示された。2014年(平成26年)度に行われた追加調査について沼津市教育委員会が示した解釈も同様の内容であった。つまり墳丘の盛土から検出された土器は大廓様式1の土器で、これが墳丘の築造時期を示し、主体部上部から検出された大廓式の様式3の土器や副葬品が示す時期が埋葬時期であるとし、埋葬後も祭祀が続けられたと見なしたのである。具体的には古墳築造が230年頃、埋葬が250年頃であるとした。 在地の土器をベースとして外来土器の影響を受けて成立した、大廓式土器の成立時に当たる様式1の段階に古墳築造が行われ、大廓式土器の画期と考えられる様式3の時代に被葬者の埋葬が行われたとすると、高尾山古墳は大廓式土器の文化圏の中核となることが想定される。また様式3の時代になって、大廓式土器が各地へと拡散していく動向からは、高尾山古墳の被葬者が各地域との首長との間に交流関係を結んでいたことが想定される。また、高尾山古墳から出土した大廓式土器が古墳と関連性があるものとする考えからは、これまで地域で作られていた土器が外来系土器の影響を受けて成立したという大廓式土器の成立経緯は、古墳時代冒頭の東日本各地における社会の動きと同期したものであり、高尾山古墳から出土した様式1から様式4の大廓式土器群はその実態をもっとも良く表す資料の一つであり、古墳自体も当時の社会の変革を反映しているとの見方もある。
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