大庭氏の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:41 UTC 版)
平安時代の末期、この地は大庭御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉景正(権五郎、景政とも表記)によって開拓され、伊勢神宮に寄進されたもので、のち子孫は大庭氏に改姓し、代々治めていた。 城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘(たて)」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。 大庭氏の子孫および一族の存続を示す具体的な記録の一つとして、相模国の大庭三郎景連が備後の新庄本郷に地頭として任命され、建保元年(1213年)、当地で築城した事例がみえる。のち大場氏と称した。なおこれも大庭城(または大場山城、本郷城などの別称あり)との呼称が残っている。
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