弥生時代終末期と広域ネットワーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
「高尾山古墳」の記事における「弥生時代終末期と広域ネットワーク」の解説
3世紀前半の弥生時代末期、土器、青銅器、鉄器、水銀朱などの多種多様な物資が日本各地で盛んに流通していたことが確認されている。物資の流通は旧石器時代以降確認できる現象であるが、弥生時代終末期は遠隔地からのモノの流通を含み、前時代よりも遥かに交流が盛んにおこなわれたという特徴がある。このような中で3世紀前半には奈良盆地南西部の纒向遺跡など、交流の拠点となる場所に大規模な集落が形成され、そのような拠点集落では、地元ばかりではなく遠隔地を含む他地域からの土器が多く見つかっている。 このような各地域同士の交流の活発化の背景には船の技術革新があった。これまで使用されていた船は丸木舟のような木を刳り抜いて製作した刳船であり、大型化が難しいため運搬能力が低く、また安定性も悪いため、外洋での航海が困難であった。それが弥生時代中期以降、丸木舟の側面に舷側板を取り付けたり、船首の部材を取り付ける準構造船の登場が確認されている。弥生時代終末期には準構造船が大型化しており、日本各地の物資交流の活発化に貢献する。このような準構造船の拠点となったのが、河口の近くで砂州に隔てられた潟湖であった。潟湖は波が穏やかであるため弥生時代終末期、各地との物資交流を担う準構造船の拠点となり、潟湖周辺には交流の拠点となる場所として大規模な集落が形成されるようになったと考えられる。このような拠点集落の代表として、伊勢湾西岸の雲出川流域、西三河の矢作川支流の鹿乗川流域の遺跡が挙げられる。 高尾山古墳が造営された東駿河には潟湖である浮島沼があり、集落の形成状況や高尾山古墳など初期古墳の築造状況が伊勢湾西岸の雲出川流域と類似していることが指摘されている。実際、浮島沼周辺の遺跡からは古墳時代前期のものと考えられる準構造船が発掘されている。このように高尾山古墳を造営した勢力の一端は、弥生時代終末期から日本各地で見られる、準構造船の拠点となった潟湖周辺に設けられた拠点集落であると考えられる。 高尾山古墳から出土する土器や狩野川下流域が生産拠点であった大廓式土器などから、当時の広域ネットワークのあり方が垣間見える。前述のように奈良の纒向遺跡からは大廓式の大型壺が出土している。この大廓式土器は、当時、多地域を結ぶネットワークの中心地のひとつとして機能していた伊勢湾西岸の雲出川流域から搬入された土器であると考えられる。当時の物流の拠点であった伊勢湾西岸の雲出川流域、西三河の矢作川支流の鹿乗川流域は、海上交通を通じてお互いに密接な関係にあったと考えられ、大廓式土器など様々な外来系土器が大量に出土している。これら広域ネットワークの拠点集落の近傍には、古墳時代初頭築造の古墳が確認されている。一方、高尾山古墳からは東海西部系、近江系、北陸系などの外来系土器が出土しているこれは高尾山古墳の被葬者と土器の搬出先との関係性を示唆している。中でも東海西部系の土器が多いことから、東海地方西部との密接な関係が想定される。 これまで述べたように古墳出現期の古墳時代冒頭は、遠隔地を結ぶ様々なネットワークが活性化した時期であった。準構造船の拠点となった潟湖である浮島沼の近傍に築造された高尾山古墳は、まさに当時の天然の良港に近接した交流の拠点の一つに築造されている。このことから、中央高地における交通の要衝に築造された弘法山古墳などと同じく、広域ネットワークを掌握した地域首長の姿が見えてくる。前時代までの方形周溝墓から、前方後円墳や前方後方墳が日本各地で広く築造が開始されることも、このような広域ネットワークの形成が密接に関わっていると考えられる。古墳出現期の高尾山古墳や弘法山古墳では他地域からの土器が多く出土している。これは単に地域を代表する首長の墳墓であるばかりではなく、弥生時代とは異なる新たな秩序が広く形成されつつあった当時の時代性をはっきりと示している。
※この「弥生時代終末期と広域ネットワーク」の解説は、「高尾山古墳」の解説の一部です。
「弥生時代終末期と広域ネットワーク」を含む「高尾山古墳」の記事については、「高尾山古墳」の概要を参照ください。
- 弥生時代終末期と広域ネットワークのページへのリンク