弥生期 - 飛鳥期
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日本では、倭国と呼ばれた古代から皇位継承(王位継承)に関する問題が生じていた。『魏志倭人伝』によれば、弥生時代後期の2世紀後半、倭国王位の継承を巡って倭国大乱が起こり、卑弥呼が倭国王となることで争乱が終息した。さらに卑弥呼の没後、男王が立ったが再度争乱が起こり、卑弥呼の宗女台与が王位について争乱は収まったと記録されている。 古墳時代の5世紀にも、王位継承を巡る数々の紛争の発生が、『日本書紀』の記載から読み取れる。6世紀前半には、武烈天皇の崩御により一旦、大王系統が断絶しているが、応神天皇の5世の子孫とされる継体天皇が大王位を継承した。実際に5世の子孫だったかには賛否両論あるが、この事例は天皇の5世の子孫までは皇位継承権を持ちうる先例となって、その後の皇統断絶の際に強く意識されることとなった。 古墳時代から飛鳥時代にかけて(6世紀中期 - 7世紀後期)も、大王位継承の紛争がたびたび生じた。この頃の大王位継承のルールには、兄弟承継、大兄承継、母后出自、群臣推挙、先帝遺詔(更に近年では即位要件に年齢制限(30歳以上)があったとする説もある)などがあり、これらが複雑にからんで大王位継承が行われていたと推定されている。継体天皇の後に安閑天皇・宣化天皇が数年間在位して欽明天皇が即位しているが、欽明天皇による簒奪だったとする説もある。その後、欽明天皇の子孫が大王を継いでいるが、その経緯は複雑であり、多くの紛争が生じている。次期大王の決定が難航したときは、女性が大王に選ばれることもあり、推古天皇、皇極天皇らが即位して、他に適当な男子の大王位承継者が現れるまで在位した(女性天皇。女帝が選ばれた理由には諸説あり、律令制以前の中継ぎ説を認めないなどの異説が多く存在する)。 古代の大王位の継承において、最大の争いとなったのは、672年(白鳳元年)の壬申の乱である。天智天皇は直系の大友皇子(弘文天皇)を皇嗣と定めたが、それを不服とする大海人皇子が大規模な叛乱を起こし、大友皇子を滅ぼして自ら大王となった(天武天皇)。天武天皇は、自身以降の皇位継承紛争を防止するため、兄弟間継承を廃止し、直系男子が皇位継承するルールを定めようと試みたらしく、草壁皇子を皇太子に立てた。だが、政権基盤が固まる前に天武天皇が崩御してしまったために、天武天皇の皇后は草壁皇子が大友皇子の二の舞にならないように拙速な皇位継承を避けようとした。だが、その草壁皇子までが急逝してしまった為に、皇后は皇位継承紛争を防ぐために、自ら皇位に就き(持統天皇)、草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)を皇太子とした。この系統は一般的には天武天皇系の皇統とみなされているが、天智天皇の皇女であった持統天皇が自分自身を天智天皇の直系と意識していた可能性は高い(歴史上女性天皇の配偶者は男性皇族(天皇含む)であったため問題視されることはなかったが、女性天皇の子孫も皇族としての権利は同等であったとみられ、長屋王と吉備内親王の皇子が天武天皇の曾孫から元正天皇の孫に待遇が改められた事例がある(『続日本紀』霊亀元年2月25日条))。
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