ターミナルケア
ターミナルケア(英: End-of-life care)または終末期医療(しゅうまつきいりょう)とは、終末期の医療および看護のことである。
終末期の定義
終末期という概念や言葉については、日本の法律、国際連合で採択された条約[1]、日本の厚生労働省[2]、世界保健機関[3]、医学学会[4][5]などによる、公的に明確な統一された定義はしていない。
そのため、終末期の意味は論者によって異なる。一般的には老衰・病気・障害の進行により死に至ることを回避するいかなる方法もなく[6][7]、予想される余命が3~6ヶ月以内程度の意味で表現されている[要出典]。
事故・災害・急性疾患により突然死した場合や、急性期の病気で発症から数時間~数何日間程度で死に至った場合は、死亡日以前に余命3ヶ月などと予想される状況ではないので、死亡日から逆算して3ヶ月以内を終末期とは表現しない。
ターミナルケアの目的
終末期の患者は、老衰、ガン、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、筋萎縮性側索硬化症、筋ジストロフィー、パーキンソン病など疾病の進行、交通事故や災害などによる重大な負傷により、特定又は全身の臓器の機能不全または多臓器不全になっているので、医学的・生物的に救命や延命は不可能であり延命治療は行なわず、病気や障害からの回復や、病気や障害の進行の遅延や、心身の機能の維持を目的とする医療も不可能であり行なわない。
終末期の患者に対して身体的苦痛や精神的苦痛を緩和・軽減することによって、人生の質、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)を維持・向上することを目的として、医療的処置(緩和医療)に加え、精神的側面を重視した総合的な措置がとられる。
厚生労働省は「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」(平成19年5月策定、改訂平成27年3月)を策定していて、平成30年の診療報酬・介護報酬改定において、地域包括ケア病棟を有する保険医療機関等においては同ガイドライン等の内容を踏まえ、看取りに関する指針を定めていることが診療実績の評価に係る要件として明示されることとなった。
ターミナルケアを行う施設
ターミナルケアを行う施設としては、終末期の緩和ケア病床、慢性期の療養病床、老人介護施設、障害者介護施設などがある。ターミナルケアを専門に行う医療施設はホスピスとも呼ばれる。この外来語の語源である英語「hospice」の原義は、聖地への巡礼者や旅行者を、小さな礼拝堂を持つような教会が泊めた巡礼教会であった。患者や家族が在宅生活を希望する場合は、訪問医療・訪問看護による在宅での見取りケアという方法もある。
日本の医療制度・介護制度としては、ターミナルケアを行う施設として、健康保険が適用される施設として、ホスピス、医療療養病床、介護保険が適用される施設として介護療養病床、介護療養型老人保健施設、特別養護老人ホームがある。
リテラシー向上
国 | 年 | キャンペーン名 |
---|---|---|
オーストラリア | 2015 | ダイイング・トゥ・トーク |
オーストラリア | 2017 | 在宅緩和ケアの選択肢が広がる |
オーストラリア | 2017 | 専門家による緩和ケアとアドバンス |
オーストラリア | 2017 | 私の終末期ケア |
オーストラリア | 2018 | 最も重要なこと |
オーストラリア | 2019 | 高齢者介護対策における包括的緩和ケア |
オーストラリア | 2020 | 全国緩和ケア |
オーストラリア | 2020 | 緩和ケア |
アイスランド | 2015 | 死ぬ術 |
アイスランド | 2016 | 死ぬ術 |
アイスランド | 2016 | 死のカフェ |
アイスランド | 2016 | アイスランド北部の緩和ケアサービス |
アイスランド | 2016 | アイスランド北部でのPCセミナー |
アイスランド | 2021 | 誰もが死ぬ |
アイルランド | 2010 2014-2020 | 緩和ケア週間 |
日本 | 2014 | EOLC強化イニシアチブ |
日本 | 2017 | オレンジバルーンプロジェクト |
日本 | 2020 | 人生会議(アドバンス・ケア・プランニング) |
韓国 | 2007 | 疼痛管理キャンペーン |
韓国 | 2013 | ホスピスデーキャンペーン |
ルクセンブルク | 2009 | 緩和ケアの手引き |
ルクセンブルク | 2019 | 人生の終わりの私の意志 |
ノルウェー | 1999 | キャンペーン:価値委員会 |
ノルウェー | 2013 | キャンペーン: 死のカフェ |
ノルウェー | N/A | キャンペーン: 死は私たち全員を揺るがす |
ノルウェー | 2021 | 死についての開放性 |
スロベニア | 2012 | キャンペーン:自宅で |
スロベニア | 2018 | キャンペーン: 最後の援助 |
アメリカ | 2010 | 緩和ケア |
アメリカ | 2014 | NIHSeniorHealth.gov |
アメリカ | 2014 | 会話プロジェクト |
一般の人々の終末期に関する情報と認識を向上させることで、誤解(社会的スティグマ)を減らすことが可能である[9]。OECD22カ国を対象とした調査では、83%において緩和ケアについての情報提供プログラムが、国もしくは地方自治体レベルで存在する[9]。リビング・ウイルについては45%、DNARについては14%であった[9]。
規制あり | デンマーク、エストニア、ギリシャ、リトアニア、ノルウェー、メキシコ、スロベニア、米国 |
ガイドラインあり | ベルギー、日本、ノルウェー、オランダ、英国イングランド |
規制および ガイドラインあり | コスタリカ、フランス、ハンガリー、アイスランド、イタリア、ラトビア、ポーランド、イギリス |
いいえ | ポルトガル、アイルランド、チェコ |
地方に任せられる | オーストラリア、カナダ、スウェーデン |
日本における歴史
2007年5月、厚生労働省は「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」の初版を公表した。
2012年6月、社会保障制度改革推進法が成立。その第6条3では「個人の尊厳が重んぜられ、患者の意思がより尊重されるよう必要な見直しを行い、特に人生の最終段階(ターミナルケア)を穏やかに過ごすことができる環境を整備する」と定められた。
2018年3月、11年ぶりに『人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン』の指針が左記のポイントで改訂が行われた。まず名称の変更 『人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」』から『人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン』に名称の変更。医療ケアーチームに加えて介護従事者も参加。本人の意思は変化しうるものであり、医療・ケアの方針や、どのような生き方を望むか等を、日頃から繰り返し話し合うことが強調されている。また本人が意志を伝えられないときは家族等の信頼できる者を決めたり、単身者は親しい友人に拡大している。話し合った内容はその都度文書に残し、本人、家族等、医療・介護チームが共有し、ACPの取組の重要性を強調している[10][11][12]。
2018年11月、厚生労働省は、終末期の患者が家族や医師と話し合って治療方針を決める「アドバンス・ケア・プランニング」(ACP)の国内普及を図っており、その愛称を「人生会議」として公表した[13]。
2019年11月、同省は「人生会議」の啓発ポスターを作成(吉本興業に発注)したが、批判を受け、地方公共団体への発送を中止した[14]。
臨床研究
2024年のランダム化比較試験で、がんのターミナルケアに一般医療従事者が関わることにより医療費を削減できたとの研究報告がある [15]。
脚注
- ^ United Nations>Treaty Collection
- ^ 厚生労働省>政策について>分野別の政策一覧>健康・医療
- ^ World Health Organization
- ^ National Center for Biotechnology Information U.S. National Library of Medicine>PubMed
- ^ 日本医学会
- ^ 小学館国語辞典>終末医療
- ^ 三省堂国語辞典>終末医療
- ^ OECD 2023, Appendix. 3.A..
- ^ a b c d OECD 2023, Chapt.3.3.
- ^ 『「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」の改訂について』(プレスリリース)厚生労働省、2018年3月14日。オリジナルの2020年12月2日時点におけるアーカイブ 。2020年12月2日閲覧。
- ^ “人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン” (PDF). 厚生労働省 (2018年3月). 2020年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
- ^ “人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン 解説編” (PDF). 人生の最終段階における医療の普及・啓発の 在り方に関する検討会 (2018年3月). 2020年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月2日閲覧。
- ^ ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」に決定しました厚生労働省 報道発表資料(2018年11月30日)2018年12月3日閲覧。
- ^ 小籔さん起用の「人生会議」ポスター、批判受け発送中止 - 朝日新聞デジタル
- ^ Manali IP, Madhuri Agrawal, Douglas WB, M KB, Arnold Milstein (May 2024). "Long-Term Engagement of Patients With Advanced Cancer: Results From the EPAC Randomized Clinical Trial". JAMA Oncol.: e241221. doi:10.1001/jamaoncol.2024.1221. PMC 11140577. PMID 38814627。
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出典
- OECD (2023-02), Time for Better Care at the End of Life, doi:10.1787/722b927a-en
関連項目
外部リンク
終末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 16:08 UTC 版)
Ⅲ層:石器18点が2カ所の集中部から出土した。内訳は細石刃1点、石核1点、剥片11点、礫器3点。砂岩製の剥片が多く、礫器の製作に関連する資料である。礫群は伴わない。
※この「終末期」の解説は、「中山谷遺跡」の解説の一部です。
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終末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:56 UTC 版)
西区・東区のⅢ層が該当する。西区Ⅲ層の集中部(1号ブロック)では、後半期に位置づけられるナイフ形石器、石槍と、終末期の細石器が分離できない状態で出土した。 西区Ⅲ層:4270点の石器が4カ所の集中部他から出土している。内訳はナイフ形石器28点、石槍56点、細石核4点、細石刃20点、スクレイパー25点、楔形石器2点、二次加工剥片29点、使用痕剥片12点、石核23点、剥片2166点、砕片1774点、礫器3点、台石1点。チャート製、黒曜石製のものが最も多く、次いで粘板岩製、安山岩製のものが見られる。黒曜石80点の産地分析の結果は、神津島産39点、麦草峠産19点、柏峠産10点、小深沢産6点、高原山産4点、星ヶ塔産1点、畑宿産1点であった。このうち神津島産のものはナイフ形石器1点を除くと、他はすべて細石核、細石刃であった。細石刃には、小深沢産、高原山産のものも各1点含まれていた。礫群6基、配石5基を伴う。 東区Ⅲ層:83点の石器が1カ所の集中部他から出土している。内訳は石槍1点、スクレイパー3点、二次加工剥片5点、石核4点、剥片43点、砕片11点、その他1点。チャート、ホルンフェルス、黒曜石の順に利用されている。黒曜石1点の産地分析の結果は、すべて小深沢産であった。礫群3基、配石4基を伴う。
※この「終末期」の解説は、「野川中洲北遺跡」の解説の一部です。
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終末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 22:13 UTC 版)
Ⅲ層:石器69点が2カ所の集中部から出土した。内訳は石槍4点、スクレイパー3点、彫器1点、石核1点、剥片57点、礫器3点。砂岩製、次いで粘板岩製のものが多い。石槍は大型の両面加工である。礫群1基、配石3基を伴う。
※この「終末期」の解説は、「前原遺跡」の解説の一部です。
「終末期」を含む「前原遺跡」の記事については、「前原遺跡」の概要を参照ください。
終末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 22:13 UTC 版)
B地点Ⅲ下層・Ⅲ中層・Ⅲ上層が該当する。Ⅲ中層は細石器、Ⅲ上層は大型尖頭器の石器群である。Ⅲ下層は示標石器不明。 Ⅲ下層:石器116点、うちスクレイパー2点、使用痕剥片1点、石核5点、剥片82点、砕片18点、礫器7点、ハンマー1点。安山岩を主体とし、硬質頁岩、黒曜石なども利用している。黒曜石24点の産地分析の結果は、星ヶ塔産14点、小深沢産9点、その他信州系1点であった。礫群1基を伴う。 Ⅲ中層:石器600点、うち細石核1点、細石刃65点、細石核打面再生剥片7点、石槍1点、石鏃様石器1点、スクレイパー1点、使用痕剥片5点、石核3点、剥片71点、砕片149点、磨石1点。大半が黒曜石製である。計48点の産地分析の結果、黒曜石は神津島産33点、柏峠産8点、畑宿産4点、小深沢産2点、星ヶ塔産1点であった。礫群、配石は伴わない。分布上、Ⅲ上層と重なるが、石材と石器種別により区分されたものである。石鏃様石器は有形三角形鏃に類似し、同時期には他に類例がない。 Ⅲ上層:石器94点、うち石槍12点、削器7点、使用痕剥片2点、石核5点、剥片38点、砕片19点、礫器9点、磨石1点。大半が安山岩製である。礫群1基、配石2期を伴う。石槍の形態からみて縄文時代草創期の隆起線文土器に伴う可能性がある。
※この「終末期」の解説は、「西之台遺跡」の解説の一部です。
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終末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 20:26 UTC 版)
白色矮星の中には、赤外超過を示すものが発見されており、それらは塵でできた星周円盤だと考えられている。円盤を構成する塵は、小惑星などかつて惑星系を形成していた天体の残骸とみられる。 また、白色矮星、中性子星、ブラックホールなどのコンパクト星、特に近接連星系の主星が終末期を迎え、コンパクト星になったような天体では、そのコンパクト星にガスが回転しながら落ち込み、しばしば降着円盤が形成される。 詳細は「降着円盤」を参照
※この「終末期」の解説は、「星周円盤」の解説の一部です。
「終末期」を含む「星周円盤」の記事については、「星周円盤」の概要を参照ください。
終末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 08:49 UTC 版)
Ⅲ上層:石器294点が4カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器1点、細石核1点、細石刃45点、石核9点、剥片129点、砕片70点、チャンク5点。頁岩(シルト岩)製が半数を占め、次いでチャート、黒曜石なども利用されている。細石核、細石刃は頁岩、チャート製である。計8点の産地分析の結果、黒曜石は神津島産2点、柏峠産2点、麦草峠産2点、小深沢産1点、星ヶ塔産1点であった。礫群、配石は伴わない。
※この「終末期」の解説は、「はけうえ遺跡」の解説の一部です。
「終末期」を含む「はけうえ遺跡」の記事については、「はけうえ遺跡」の概要を参照ください。
終末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:08 UTC 版)
群馬県の古墳の大部分は後期古墳であり、7世紀中頃になると古墳造営の勢いは急激に衰えるが、7世紀後半の前橋市の宝塔山古墳は蛇穴山古墳とともに群馬県の代表的な終末期古墳で、埼玉県行田市の八幡山古墳(径約66メートル、円墳)と並ぶ強大な豪族の存在を示している。この頃には関東で前方後円墳が衰退し、近畿でも大規模な古墳は造られなくなっていた。上毛野の前方後円墳造営は6世紀末までで終わり、上毛野各地の古墳群では大規模な古墳が造られることはなくなったが、唯一の例外が総社古墳群で、6世紀後半に前方後円墳の総社二子山古墳(90メートル)が造られ、7世紀にも総社愛宕山古墳(一辺55メートル)、宝塔山古墳(54×49メートル)、蛇穴山古墳(一辺39メートル)の3基の大方墳が築造された。宝塔山古墳、蛇穴山古墳は切石造りの横穴式石室を持ち、かつては7世紀末から8世紀前半のものと考えられていたが、7世紀中葉から後半と修正されている。総社古墳群では7世紀代に最低3代にわたって方墳が造られた。このような大型方墳が築造されたのは上毛野全域でも総社古墳群のみである。これは上毛野全域にわたる支配体制の成立を示唆し、上毛野国造の出現とも考えられる。7世紀の下毛野では、下都賀郡壬生町の壬生車塚古墳が造られている。これは空濠の外側に土塁を巡らした径62メートル、高さ9メートルの円墳で、深岩の凝灰岩とされる切石造りの横穴式石室を持つ。7世紀に入って関東地方の各地に現れる大型の方墳・円墳は、上毛野、下毛野、武蔵のように後の令制国を単位に1か所ずつ出現しているものが多い。しかし上毛野、下毛野、武蔵は国造の支配領域とも一致しており、総国で「国造本紀」に見られる武社国造の支配領域に駄ノ塚古墳、印波国造の支配領域に龍角寺岩屋古墳が造られたように、国造の支配領域を単位に現れている可能性もある。埼玉古墳群付近には『万葉集』にも登場する埼玉津(さきたまのつ)があり、川を下れば東京湾に通じ、遡れば前橋市の総社古墳群や高崎市の綿貫観音山古墳・観音塚古墳に通じる。前橋・高崎も水上交通の拠点であり、古墳に埋葬されている人物は水田の他に水上・海上交通を支配していたことが考えられる。総社古墳群の周辺には後に上野国の国府・国分寺が営まれるに至った。 高崎市の山ノ上古墳は後期古墳のような群集墳の1基ではなく単独で造営され、凝灰岩の截石切組積で横穴式両袖型の石室を持つ。精巧な切石を使った横穴式石室の構造や山寄せ技法と呼ばれる斜面の利用法などから終末期古墳と見られる。山寄せ技法によって山頂付近に築造される例は、近畿地方では大阪府高槻市の阿武山古墳や奈良県桜井市の多武峰の山頂古墳などが知られるのみで、全国的にも希少である。また現存する石碑を伴う唯一の古墳である。その山ノ上碑は輝石安山岩の自然石で造られ、高さ1.2メートル、最大幅0.5メートル、厚さ0.5メートルで、碑文は4行53字、文字は楷書体の薬研彫である。山ノ上碑の碑文「辛巳歳集月三日記佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児長利僧母為記定文也放光寺僧(辛巳〈かのとみ〉の歳、集〈じゅう〉月三日記す。佐野の三家〈みやけ〉と定め賜える健守命〈たけもりのみこと〉の孫・黒売刀自〈くろめとじ〉、此れ新川臣の児・斯多々弥足尼〈したたみのすくね〉の孫・大児臣〈おおごのおみ〉に娶〈めあ〉いて生める児・長利僧、母の為に記し定むる文也。放光寺僧)」も山ノ上古墳が終末期古墳であることを裏付けている。総社古墳群の南にある山王廃寺は関東最古の大伽藍のひとつで、7世紀後半より前の造営とされる。寺の名が長年不明であったため山王廃寺と呼ばれたが、1979年の前橋市教育委員会による第6次調査の際に「放光寺」または略して「方光寺」とヘラで書かれた瓦が次々と出土したことから、放光寺という名であった可能性が高まった。これが確実になれば碑文の長利僧は総社古墳群を営んだ集団の一定時期の中心人物と推定され、何らかの理由により母の墓を南西の山上に造ったことになる。碑文は母の黒売刀自が大児の臣に娶いて生まれた子が長利僧であるという女性本位の系譜となっている。 新川・大児(大胡)は群馬県でも稀な終末期古墳の所在地で、大胡は中世に政治勢力を持つ地でもある。新川は勢多郡新里村を経て桐生市に合併されているが、新里には終末期古墳の中塚古墳付近に武井廃寺とされてきた遺跡がある。この遺跡は、塔の心礎と考えられていたものが骨蔵器をいれる石櫃で、塔の基壇と考えられていたものは3段に築かれた八角墳であることがわかっている。八角墳は奈良県高市郡の野口王墓古墳や中尾山古墳など、8世紀初頭前後の天皇陵の墳形とされているが、同時期の群馬の豪族も八角墳を造っており、高崎市の神保一本杉古墳も終末期八角墳の可能性が指摘されている。赤城山南麓の前橋市大胡地区では約40基の古墳が発掘されており、精巧な切石の横穴式石室を持つ終末期の堀越古墳は、山ノ上古墳とほぼ同年代で、山寄せ技法による墳丘や石室の規模も非常に似ている。石室の長さは山ノ上古墳が6メートル、堀越古墳が6.9メートルで全体に堀越古墳の方がやや大きい。
※この「終末期」の解説は、「毛野」の解説の一部です。
「終末期」を含む「毛野」の記事については、「毛野」の概要を参照ください。
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