奈良・平安時代
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8世紀から9世紀にかけての掘立柱建物4棟、竪穴建物14棟、大溝などを検出。砺波平野東部は東大寺領荘園が造営された時期にあたり、大溝は庄川の当時の本流から取水し荘園推定地にかんがい導水していたと考えられる。
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奈良・平安時代
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奈良時代の印章の制度は中国のそれを受け継いだもので、印を作るのは国家の特権とされ、私人が印を作るに際しては国家の許可が必要であった。つまり、日本の律令制下では「印」といえば即「官印」だったのである。 大宝令(701年)の規定によれば、官印には、内印、外印、諸司印および諸国印の4種があった。内印は天皇の印章であり、印文は「天皇御璽」で大きさが方3寸と決まっており、五位以上の位記および諸国に下す公文に用いた。外印は太政官の印であって、方2.8寸、印文は「太政官印」で、六位以下の位記および太政官の文政官の文案に用いた。当初は文書の全面に太政官印を押していたが、奈良時代後期には文書の首尾と中間にあたる中央部の計3ヶ所と日付の付近に1ヶ所に限り、また押印も少納言が押印の申請を奏上して勅許を得た後に少納言の監督下で少納言局史生が実際の押印を行った。これを請印(しょういん)と呼んだ。また初期においては少納言がその職掌として監理するものであったが、蔵人所の設置以降は、蔵人の職掌となった。諸司印は、各省・台・寮・司などが用いるもので、百官有司みなそれぞれに印章を有し、太政官に差し出す文書や他の役所に送付する文書に用いた。諸国印は、各国で用いるもので、京に差し出す公文書に用いた。以上が、日本における正式な印すなわち官印というべきものであったが、これに準ずべきものに、郡印、郷印や寺社印があった。 また、7世紀末から8世紀初めに設置された軍団には、銅製の団印があった。筑前国に置かれた遠賀団と御笠団の印章が、1899年と1927年に大宰府周辺(現・福岡県太宰府市)で出土している。 日本における官印およびそれに準ずる印の使用目的としては、一つには文書の真偽の弁別、もう一つは律令国家の権威を示すことにあった。奈良時代に勃発した藤原仲麻呂の乱では、双方で印の確保や奪回が行われるほどであった。後者の端的な例としては、遠江国「平田寺文書」天平感宝元年(749年)閏5月20日勅願文があり、文書一面に文字のない箇所にも内印「天皇御璽」が捺されている。また10世紀中葉の平将門の乱は、当初平氏一族内の私闘と考えられていたものが、のちに国家への叛逆行為と見なされるようになったものであるが、その最大の要因は平将門が常陸国府を包囲・攻略し、官印を奪ったことによる。これも官印の権威性を示す一例である。 このように、建前としては印章は官印だけというのが本来の制度であり、貞観10年(868年)の太政官符に載せた起請にも「公式令を按ずるに、ただの諸司之印ありて、未だ臣家の私印を見ず」とあり、私印は許されていなかった。ただし天平勝宝8年(756年)藤原仲麻呂は、孝謙天皇より「恵美」の姓を賜っているが、そのとき特別に「恵美家印」の使用が認められている。しかし、この場合であっても許可なく「家印」を用いることは許されていなかった。もっとも貞観10年の格においては「有印の諸家はみな私印を鋳造し、ひそかに用いる慣習となってしまっているが、これはやむをえないことだ」としてその使用を許可するとともに、印の大きさを1寸5分を限度とすべきことを示して、平安時代中葉頃から広まったとみられる私印の使用を事実上追認している。 なお、日本の官印は、その使用時期がちょうど隋・唐に重なることからその影響を強く受けており、唐印によく似たものとなっている。
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奈良・平安時代
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奈良・平安期の遺物である瓦塔が長野原町中央小学校工事の際に出土している。出土したのは塔の一部にとどまり、全体像をつかむことはできない。
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奈良・平安時代
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現在日本で広く知られている形の箏は、13本の弦を持ち、奈良時代に唐より伝わり、奈良および平安時代に雅楽(ががく)の中で用いられた。龍の象徴とされ、現在でも箏の部分の名称として龍頭や龍尾などの名残がある。雅楽で用いられる箏を「楽箏(「がくごと」または「がくそう」)」と呼ぶ。 また奈良・平安時代より独奏楽器(および弾き歌いの伴奏)としても用いられた。これらは『平家物語』『源氏物語』などいくつかの平安文学の中に描写されている。ただし具体的な楽曲は現在残っていない(伝わっていない)。 また龍と対を成していた鳳凰(ほうおう)を象徴したハープ型の「箜篌(くご)」は、伝統としては廃絶した。正倉院に断片が宝物として保管され、現代においては復元された複製楽器が演奏されている。また箏と同じツィター属の大型楽器である瑟(しつ)は正倉院の宝物が24本、中国の古代楽器では25本の弦を持つ。伝説では神がこの瑟を二つに割って、13弦の箏と12弦の箏(別の名がある)が作られたと言われている。これも現在日本の伝統では廃絶したが、現代になって復元された。
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奈良・平安時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 19:37 UTC 版)
古代にあっては建部姓を取り、大宰府在庁官人であった。後に一族は郡司職についている。11世紀半ば過ぎに、禰寝氏初代清重に遡ること4代前の藤原頼光に関わる史料が『禰寝文書』では最初の文書として上げられている。治暦5年(1069年)のことである。京で藤原氏全盛期のころ、建部姓の一族は、奥州にあって清原氏が藤原姓を名乗るように大隅国にあって藤原姓を取っていた。頼光が子女に配分した所領は広大で、荘園としての禰寝院の規模をはるかに超え、絶大な権勢を保持した。
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奈良・平安時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:34 UTC 版)
1978年(昭和53年)、瀬谷西高校の建設工事で奈良時代と思われる横穴墓が検出され、人骨が出土した。同時に盗掘のあとも見つかっている。正門から校舎に向かう道路の下部付近である。
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奈良・平安時代
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当時、和歌浦で最も著名な景勝は玉津島である。当時の玉津島は海上に浮かぶ小島であった。そして、潮の干満で陸と続いたり離れたりする景観を呈していたという。その神聖さから丹生より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられた。また、玉津島の西側に発達した砂嘴は、片男波も今よりずっと内側に入り込んでいたものと推測されており、赤人の句のとおり、葦などの水生植物が生い茂る湿地帯であった。 この和歌浦は都に近いことも相俟って多くの文人、貴族らに愛されてきたが、とりわけ聖武天皇はこの和歌浦を気に入り、何度も行幸している。また、この風致を維持するために、守戸と呼ばれる監視役を配置させた。 また、平安の頃には康保年間に、神霊の勧請を受けて天満宮が建設された。これは菅原道真左遷の際に、風避けの際に和歌浦に立ち寄ったことが縁となっている。
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奈良・平安時代
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「港北ニュータウン遺跡群」の記事における「奈良・平安時代」の解説
竪穴住居が建つ村々が各地に出現した。勝田原遺跡や北川表の上遺跡などでは大型掘立柱建物群などをもつ集落が見つかった。また神隠丸山遺跡では平安時代の館跡が、縄文時代集落の上に重なって見つかった。西ノ谷遺跡では平安時代末の武器・武具の鍛冶遺構が発見された。
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奈良・平安時代
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奈良時代・平安時代にあっても、早朝の聴政は続いており、「養老令」の宮衛令(くえいりょう)には、朝夕の鼓に合わせて宮城の門が開閉されることが定められており、午前6時半には朝堂の門を開くものとされている。この規定は「大宝令」の宮衛令以来のものと考えられる。さらに、「延喜式」では、季節による日の出・日の入りの時刻の変化に応じた門の開閉の時刻を、より詳細に定めている。 「延喜式」によれば、諸司の五位以上の官人は、大雨の日や11月から2月の極寒期をのぞき、基本的には毎朝、朝堂院で政務を執ることとなっていた。官人たちは、朝堂でみずからの席次(朝座)に就くと官司(官庁・官人組織)ごとに日常の政務を処理する。これを常政というが、弁官の決裁が必要な場合は弁官のもとへいって報告することとなっていた。これが申政である。また、太政大臣や左大臣、右大臣に直接上申する際には、その旨を弁官と外記に告げることとなっていた。
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