中林梧竹とは? わかりやすく解説

中林梧竹

読み方なかばやし ごちく

書家。佐賀県生。名は隆経、字は子達通称彦四郎別号に剣書閣主人・個閑・忘言。鍋島侯に仕え、のち江戸出て市河米庵山内香雪に書を学ぶ。清に渡り、潘存に師事し、また漢・魏・六朝碑の拓本多数もたらした。書は篆・隷行・草の各体にわたり、長鋒柔毫の筆を駆使して規模大き闊達な作品多く残した著書に『梧竹堂書話』がある。大正2年(1913)歿、87才。

中林梧竹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/15 08:03 UTC 版)

中林梧竹

中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日1827年5月14日[1] - 大正2年(1913年8月4日[1])は、日本書家明治の三筆の一人[2]。名を隆経[3]、通称は彦四郎[3]、字は子達[3]。号は梧竹[3]、別号に剣閣主人など[3]。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。

来歴

肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。幼い時に草場佩川に師事する[2]。19歳の時に藩命により江戸に留学し[1]、山内香雪、市河米庵の門に入ってを学んだ[3]

1877年(明治10年)清国の余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け[2]、梧竹の六朝書の研究が始まった。1882年(明治15年)梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り[1]、余元眉の師潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。1884年(明治17年)帰国し[2]1891年(明治24年)王羲之十七帖臨書明治天皇に献上した。

80代半ばより、自らの書の歩みの集大成となる『梧竹堂書話』の執筆を始めている。

1913年(大正2年)87歳の生涯を閉じた[2]

業績

明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の書風を確立し、その新書風で書壇への影響力が大きかった。六朝書法を探究して、多くの碑拓を請来したため、書というよりもむしろ絵画の味わいがある。また、水墨画も数多く残している。

同じく「明治の三筆」に数えられる日下部鳴鶴巖谷一六と比べると、梧竹が手がけた石碑は少なく、現在全国に50基程を確認できる。石碑の文字にも独特の書風が現れているものが多いが、一部は正統の楷書で書かれている[4]

著書

  • 『梧竹堂書話』

脚註

  1. ^ a b c d 中林梧竹|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2023年9月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e 中林梧竹(なかばやしごちく) | 明治有田の偉人たち”. www.arita.jp. 有田観光協会. 2023年9月15日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 中林梧竹とは”. 中林梧竹記念館デジタルミュージアム. 中林梧竹記念館. 2023年9月15日閲覧。
  4. ^ 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「中林梧竹石碑一覧表」及び各石碑写真(勝山城博物館 2017年)

関連項目

関連文献

  • 『書と禅』大森曹玄 1975年 新装版第二版 春秋社 p.82

参考文献

  • 「中林梧竹」(『芸術新聞社、1981年5・6月号)
  • 林淳 『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』(勝山城博物館 2017年4月)



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