明治の三筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 05:38 UTC 版)
明治時代初期は江戸時代の延長でしかなく、唐様と和様が行われたが、実権者の多くが漢学の素養があったことからだんだんと唐様の書風に傾いていった。 明治13年(1880年)、清国の楊守敬が漢魏六朝の碑帖を携えて来日し、元・明の書法が全盛であった日本の書道界に大きな衝撃を与えた。そして、この影響を受けた巖谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴と、直接清国に渡って書を学んだ中林梧竹を中心に六朝書道が盛んになった。平安時代初期と同様に大陸の影響を大きく受けたのである。 この六朝書道を牽引した日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六の3人を書道界では明治の三筆と呼ぶ。特に鳴鶴は多くの門人を擁していたため、これらの書風は瞬く間に全国へと広まった。これにともない漢字は和様が衰頽し、唐様は六朝書によって革新され、鳴鶴と西川春洞を中心に今日の漢字書道界の基礎が造られたのである。
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