明治の兵学
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明治期の日本ではそれまでの日本の兵学が実用性がなかったために、西洋の軍事研究を人文学や社会科学などを除いた実学的な内容に限定して集中的に翻訳、研究、実用化が行われた。 各兵種の編制、教練、戦法を規定する操練書については、特にオランダ、フランス、ドイツの歩兵操典が幕末より研究し、一時的に採用されており、はじめて実戦で用いられたのは西南戦争時の1869年版フランス歩兵操典であった。その後もフランスとドイツの教官が来日して指導していたが、最終的にはドイツ式の歩兵操典を採用し、明治24年版『歩兵操典』とし、銃器の発射機構の技術的発展に合わせてこれを小改訂しながら用いていた。 この時、「師団」「連隊」「小隊」などの用語は明治5年の『隊前比較表』で統一化され、明治7年から14年に参謀本部が編纂した『五国対照兵語字書』によって「戦略」と「戦術」が用語として確立された。またドイツ陸軍から教官として来日したメッケルによって「状況判断」「決心」「戦闘序列」「兵站」などの指揮統率の基本的な用語が確定していった。 野外での行軍、宿営、偵察、警戒、補給、衛生、給養などを規定する野戦要務書についてはオランダ版が幕末には採用されていたが、最終的にはドイツ版が採用されて明治24年に『野外要務令』となり、明治30年にも小改訂されて用いられている。独自のものではない外国の翻訳教範に対する不満は多少あったが、日清戦争および日露戦争においてその実用性が確認された。 また日露戦争後に国防方針や用兵綱領の制定、また明治42年に歩兵操典において初めて綱領を記載し、内容も劣勢で優勢な兵力に打ち勝つことを目的として攻撃精神を基盤とする白兵主義が採用され、日本独自の原則、戦闘教義が確定された。この戦闘教義については後に火力主体論争が行われ、火力の重要性と近接戦闘の必要性が争われた。
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