明治の即位の礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:36 UTC 版)
第122代・明治天皇の即位の礼が行われた当時は、天保暦が用いられており、現在のグレゴリオ暦とは日付が異なるため、天保暦(グレゴリオ暦)の順番で記載する。 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、第121代・孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚して皇位を継承し、第122代天皇となった。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、徳川慶喜による大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。 明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年)5月に新時代の到来を宣布するため、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典において地球儀を用い、皇威を世界に知らしめることを目的とした。孝明天皇即位に使用された高御座は安政元年(1854年)の内裏焼失によって失われていたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられた。 慶応4年8月17日(1868年10月2日)に、10日後の8月27日(1868年10月12日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣命使が宣命を読み上げ、参列者中、筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。 明治の大礼…総費用4万3800両伊勢神宮へ勅使発遣の儀 慶応4年8月21日(1868年10月6日) 神武天皇陵・天智天皇陵・前三代天皇陵へ勅使発遣の儀 同年8月22日(同年10月7日) 紫宸殿・清涼殿御殿洗 同年8月23日(同年10月8日) 即位礼 同年8月27日(同年10月12日) なお、大嘗祭は明治4年11月17日(1871年12月28日)に東京で行われた。
※この「明治の即位の礼」の解説は、「即位の礼」の解説の一部です。
「明治の即位の礼」を含む「即位の礼」の記事については、「即位の礼」の概要を参照ください。
- 明治の即位の礼のページへのリンク