明治の大改修と水力発電
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 13:48 UTC 版)
明治に入り、内務省はお雇い外国人による河川改修を木曽川や淀川など全国で実施した。その中心となったのがG.A.エッセルとヨハニス・デ・レーケであるが、彼らは九頭竜川流域でも治水工事を指導監督した。具体的には沈床工・護岸工の設置、土砂堆積が問題だった三国港改修のための突堤整備と九頭竜川導流堤の建設である。その後も1900年(明治33年)に足羽川放水路開削事業が開始されるなど治水事業は継続されたが、1906年(明治39年)の大水害を契機に国策での河川整備の要望が高まった。九頭竜川は1908年(明治41年)に内務省直轄河川事業に指定されたが、春江堤防・東藤島堤防築堤等の「明治の大改修」事業の完成までには杉田定一の尽力によるところが大きい。 一方、絹織物産業などの殖産興業の発達により電力需要も増大し、急流で水量の豊富な九頭竜川は水力発電の適地として次第に電源開発が行われていった。1899年(明治41年)、京都電燈が足羽川に水路式発電所である宿布水力発電所を建設したのが始まりであるが、1909年(明治44年)越前電気は同じ足羽川に持越水力発電所を建設した。これにより絹織物業の力織機動力源の確保や、1914年(大正3年)に営業運転を開始した京福電気鉄道への電力供給が可能となった。電源開発は九頭竜川本川にも波及し、1919年(大正8年)から1923年(大正12年)にかけては西勝原第1・第2発電所が建設され、九頭竜川水系における大規模電源開発の嚆矢となった。
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