明治の御親兵とは? わかりやすく解説

明治の御親兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:48 UTC 版)

御親兵」の記事における「明治の御親兵」の解説

明治3年1870年12月山縣有朋当時鹿児島藩薩摩藩)の政務にあたっていた西郷隆盛に対して天皇中央政府を守るために薩摩藩長州藩土佐藩の献兵からなる親兵組織することを提案した。これは当時中央政府属していなかった西郷薩摩藩親兵入京口実政府内に入れることで、政府強化を図る側面もあった。ただ、この構想には複雑な政治的背景があった。木戸孝允はこの御親兵の力を背景廃藩置県やそれを支え官僚租税制度整備などの中央集権化政策一気実施しようとした。だが、大久保利通木戸大隈重信進め急進的な政策には批判的で、自己の出身基盤である薩摩藩親兵入京西郷入閣はこの流れを変える足がかりになると考えたのである。 これを受けて西郷明治4年1月4日鹿児島出発して東京向かったが、その際出された「西郷吉之助意見書」には冗官整理府藩県三治制維持鉄道建設などへの批判など木戸大隈路線への批判大久保路線支持とも受け取れる言辞存在した。だが、途中で大久保木戸合流して両者意見聞き、更に東京では大隈らが西郷中央集権化反対して薩摩藩独立クーデター起こすのを危惧している(『世外事歴 維新財政談』)ことを知った西郷政争深刻化危惧して政治的な問題については新政府官僚への薩摩藩などの倒幕功労者起用提言留め、自らは専ら新制軍隊編成力を注ぐこととして一旦鹿児島戻って準備開始した2月13日4月2日)、入京した西郷中心として正式に御親兵」として発足した薩摩藩歩兵4大隊・砲隊4隊 土佐藩歩兵2大隊騎兵2小隊砲兵2隊 長州藩-歩兵3大隊 長州藩は御親兵への献兵を出し渋ったため、薩長土の中では最後に招集応じた御親兵名目上兵部卿有栖川宮熾仁親王を長とし、公称1万であったが、実質は8,000もしくはそれ以下であったと言われている。 薩長土三藩としては藩兵を維持するための財政負担大きく、その負担政府肩代わりさせられることが三藩が献兵に応じた理由挙げられる。 だが、政府にも御親兵維持するための財政的余裕無く早くも3月には宮内省予算から10万両が維持費名目兵部省移されている。それが、木戸大隈主張する地方行政組織税制改革着手主張後押ししたまた、大久保・西郷の主張する維新功労者登用先駆けとして明治3年大蔵省民部省分離の際に、木戸大隈派にをうつために大久保推挙によって日田県知事から民部大丞起用され松方正義からも財政問題打開には最終的に地方行政組織税制改革しかないとする意見寄せられると、大久保・西郷側も次第木戸大隈側に歩み寄り見せた7月14日8月29日)の廃藩置県断行には御親兵そのもの威力さることながら、その整備を巡る諸問題浮上があったのである御親兵廃藩置県とともに名実ともに近代日本最初国軍として機能することになったその後徴兵令施行とともにその役目新軍隊に譲って本来の業務である皇居警護専念することになり、明治5年3月9日1872年4月16日)には近衛(このえ)と改称され明治24年1891年)には陸軍近衛師団となった先代:- 近衛師団前身後身1868-1872 次代近衛 (日本軍)

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