明治の庁舎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 18:14 UTC 版)
明治期の庁舎。被爆により全焼するまで用いられた。 1878年(明治11年)4月15日、本庁舎を広島藩中屋敷跡地に新築移転する。この地が選ばれた理由は、当時周囲に民家がなく火災の心配がなかったためである。ルネサンス様式の木造2階建で敷地面積約7,000坪、建坪576坪(付属物込)。入り口すぐ左側に階段があり、知事室は右写真における2階手前左端に設けられていた。 なお、同時に西隣に県立広島病院が建てられている。また、道を挟んで東隣には1905年(明治38年)日本銀行広島出張所が、南側に隣接する形で1910年(明治43年)10月県会議事堂が建てられている。 1895年(明治28年)2月1日、日清戦争終結に向けた大日本帝国と清との会談である第一次講和会議がここで行われている。ただ清側の書類不備により決裂、のち下関条約が結ばれた。 この庁舎はその後大正/昭和初期まで用いられていたが、1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により庁舎は壊滅した。戦後ある時期まで観光用資源「原爆記念保存物」としてそのままの状況で保全され、1949年(昭和24年)10月当地に広島市中央卸売市場が開場、その後中央卸売市場の商工センター移設に伴い1991年(平成3年)1月アステールプラザが開場した。なお、当地には「広島県職員原爆犠牲者慰霊碑」が建っている。
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