明治の悪贋貨問題とは? わかりやすく解説

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明治の悪贋貨問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 04:13 UTC 版)

高輪談判」の記事における「明治の悪贋貨問題」の解説

開国以後江戸幕府は金の海外流出食い止めるために金貨の質を落としたが、そのために物価上昇社会混乱し欧米商人経済的な打撃受けたこのため慶応3年5月13日1866年6月25日)に欧米諸国江戸幕府改税約書を結び、内外貨幣等価交換とその安定化のために万延年間定められ現行の貨幣水準当面維持し将来的には国際水準見合った貨幣制度導入することを約束させられのである。 だが、当時幕府財政破綻寸前であり、改税約書結ばれた当時には既に幕府はこれよりも質を落として貨幣発行し続けていた。やがて戊辰戦争が始まると、外国より武器輸入するための戦費調達目的として奥羽越列藩同盟会津藩仙台藩二本松藩久保田藩などが贋貨鋳造し始め続いて薩摩藩土佐藩芸州藩宇和島藩佐土原藩郡山藩などの官軍諸藩もこれに続いたさらには加賀藩筑前藩久留米藩などの、戦争積極とはいえなかった藩までが贋貨鋳造するようになった。特に当時欧米中心とした通貨制度主流金本位制であったこと、当時小判形状対外的な運搬流通などに不便であったことから、代わりに対外決済分野で最もよく使われていた二分金贋貨鋳造盛んに行われ中には銀貨金鍍金施した贋貨とほとんど変わりのないものまで出現した。そして明治政府設置した貨幣司もまた、明治元年4月17日から翌年2月5日にかけて幕府から接収した金座銀座において、質の劣る金貨を約381万両銀貨を約224万両合計605万両鋳造した(これは一応政府発行した公式通貨であるが、政府自らが規定した貨幣としての基準満たしていないという点では贋貨となんら変わりがない)。諸藩鋳造額は不明だが、公式に届け出たものでは芸州藩は約19.6万両久留米藩は約3万両土佐藩は約5.1万両薩摩藩は公式には明かさなかったものの、吉井友実が藩の会計係問い詰め上で推計は約150万両とされている。もちろん、実際に内乱乗じた他の諸藩民間でも同様の贋貨作りが行われており、明治2年3月外国官(後の外務省)より公議所に対して3,000万両贋貨外国商人の手落ちたという「風説」があると報告されている(「問題四条」)。つまり、当時政府もその具体額は把握しておらず、将来的にも全容明らかにするのは困難である(3,000万両過大であるとしても、現在明らかになっているだけで800万両近くあり、それを遥かに上回る金額悪貨贋貨発行されたと考えられる)。

※この「明治の悪贋貨問題」の解説は、「高輪談判」の解説の一部です。
「明治の悪贋貨問題」を含む「高輪談判」の記事については、「高輪談判」の概要を参照ください。

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