明治の暁斎
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明治元年(1868年)、徳川家の転封とともに暁斎の母と甥(亡くなった兄・直次郎の息子)は静岡へ移る。明治3年(1870年)10月6日、上野不忍池の長酡亭における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描き、政治批判をしたとして捕えられ未決囚の入る大番屋へ。翌年に放免、後は「暁斎」を名乗る。 幕末から絵日記をつけ始めたようで、亡くなる1か月前のものまで残っている。20年も書いたが発見されているのは合わせて4年分である。書かれた人の似顔絵が似ているばかりでなく、ありとあらゆることを記録し、金の支払いから、画料、毎日の天候まで記し、気象庁でも毎日の天気の記録は明治14年(1881年)からであるから、彼の記録は貴重である。 明治5年(1872年)仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(第三編)、明治7年(1874年)『西洋道中膝栗毛』(第11編の一部、第12 - 15編)などの挿絵を描く。明治6年(1873年)ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、日本庭園入口に立てられる。明治9年(1876年)、エミール・ギメらの訪問を受ける。ギメが連れてきた画家フェリックス・レガメと互いに肖像画を描いて競い合った。 明治13年(1880年)、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」(早稲田大学演劇博物館蔵)を4時間で描く。明治14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」(榮太樓蔵)が「妙技二等賞牌」を受賞。暁斎はこの作品に百円という破格の値段をつけ、周囲から鴉一匹にその値段は高すぎると非難されると「これは鴉の値段ではなく長年の画技修行の価である」と答えたという。これに心意気を感じた榮太樓本舗店主・細田安兵衛は本当に百円で購入して、暁斎は面目を保った。その後この鴉は「百円鴉」と呼ばれ暁斎は画名を高めるとともに、狩野派の正当な絵師として世間に認知されるきっかけとなった。
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