明治の暁斎とは? わかりやすく解説

明治の暁斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:14 UTC 版)

河鍋暁斎」の記事における「明治の暁斎」の解説

明治元年1868年)、徳川家転封とともに暁斎の母と甥(亡くなった兄・直次郎息子)は静岡へ移る。明治3年1870年10月6日上野不忍池の長酡亭における書画会において新政府役人批判する戯画描き政治批判をしたとして捕えられ未決囚の入る大番屋へ。翌年放免、後は「暁斎」を名乗る幕末から絵日記をつけ始めたようで、亡くなる1か月前のものまで残っている。20年書いた発見されているのは合わせて4年分である。書かれた人の似顔絵似ているばかりでなく、ありとあらゆることを記録し、金の支払いから、画料毎日天候まで記し気象庁でも毎日天気記録明治14年1881年)からであるから彼の記録は貴重である。 明治5年1872年仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(第三編)、明治7年1874年)『西洋道中膝栗毛』(第11編の一部、第12 - 15編)などの挿絵を描く。明治6年1873年ウィーン万国博覧会大幟神功皇后武内宿禰図」を送り日本庭園入口立てられる明治9年1876年)、エミール・ギメらの訪問を受ける。ギメ連れてきた画家フェリックス・レガメ互いに肖像画描いて競い合った明治13年1880年)、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」(早稲田大学演劇博物館)を4時間で描く。明治14年1881年)、第2回内国勧業博覧会出品した枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」(榮太樓)が「妙技二等賞牌」を受賞暁斎はこの作品百円という破格値段をつけ、周囲から一匹にその値段は高すぎると非難されると「これは値段ではなく長年画技修行の価である」と答えたという。これに心意気感じた榮太樓本舗店主細田安兵衛本当に百円購入して暁斎面目保ったその後このは「百円」と呼ばれ暁斎画名高めとともに狩野派正当な絵師として世間認知されきっかけとなった

※この「明治の暁斎」の解説は、「河鍋暁斎」の解説の一部です。
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