明治の江古田村
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明治維新の際、上野戦争で敗れた彰義隊の一隊が落ちのびてきた。青梅街道筋では敗残兵を拒絶した所もあったが、江古田村では名主の山崎家が隊士に雑炊をふるまった。隊士は椎の木の下で傷の手当てをして休んだ。出立の際、隊長は徳川斉昭の書いた掛け軸を預け、徳川の世が戻ったらこの書を持って名乗り出るようにと言い残した。山崎家の屋敷跡は現在、山﨑記念中野区歴史民俗資料館になっている。彰義隊の残した掛け軸は同資料館に所蔵されている。隊士がたもとで傷の手当てをした椎の巨木は今も敷地内に残っている。 明治維新後の江古田村は所属が目まぐるしく変わる。1868年(慶応4年)7月に武蔵知県事の設置とともにその管轄になり、1869年(明治2年)2月に品川県が置かれるとそれへ移管された。1871年(明治4年)11月、品川県の廃止とともに東京府の管轄になった。1872年(明治5年)1月、神奈川県の管轄になり、同年8月、東京府に復した。以後の所属は東京のまま変わらない。所属する郡については、江古田村の属する多摩郡が1878年(明治11年)11月に東西南北に4分割された。江古田村は東多摩郡に属した。 明治の初めの村の農産物はコメ、オオムギ、コムギ、キビ、トウキビ、ヒエ、アズキ、ゴマ、ソバ、ナタネ、ダイコン、ナス、キュウリ、ゴボウ、藍、タケノコ、カキ、クリ、鶏卵、薪などで、ほかに醤油や油類が製造されていた(1872年東京府調査)。茶の栽培は1874年(明治7年)ごろから始まった。村民は雑木林を開拓して茶園にした。宅地の空いているところもみな茶園にした。製茶は大正末まで行われた。ダイコンもよくできた。生だと重いので沢庵漬けに加工して出荷した。秋には田園に白い干し大根が並んだ。養蚕は明治の頃から大正の初めまで行われた。長野県の人から指導を受けた。副業に植木の苗木を育てた。ウメ、モモ、ナンテンなどの生け花用の木も栽培した。桜湯にするサクラの花を摘んだ。 1882年(明治15年)に村内に小学校が建てられた。江古田村は当初、1876年(明治9年)に設立された豊玉小学校の学区に属したが、村外に建てられた本校は児童の足では遠いので、村内の東福寺の寺子屋を分校にした。1880年(明治13年)に東福寺の住職が外に転居したため、和田山(現・哲学堂公園)にある五辻家の別邸を借りて学校にした。ここも使用できなくなったので、1882年2月4日に村内で遷喬小学校を開設した。江古田小学校の前身である。敷地は現在地(江古田2-13-28)近くの別の場所(現・江古田2-6)であった。 校舎の建材に用いるため、村内の第六天社境内のケヤキを伐採した。周囲二丈余り(6メートル超)もある大木で、明治の初めには神木とされていた。幹には数人が入れるほどの大きなウロ(となりのトロロが寝ていたような空間)があった。木の根が畑に入り込んで耕作の邪魔だというので村民が協力して巨木を伐り倒し、校舎の建材として大八車で運んだ。
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