明治の江古田村とは? わかりやすく解説

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明治の江古田村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:09 UTC 版)

江古田」の記事における「明治の江古田村」の解説

明治維新の際、上野戦争敗れた彰義隊一隊落ちのびてきた。青梅街道筋では敗残兵拒絶した所もあったが、江古田村では名主山崎家隊士雑炊ふるまった隊士椎の木の下で傷の手当てをして休んだ出立の際、隊長徳川斉昭書いた掛け軸預け徳川の世が戻ったらこの書を持って名乗り出るようにと言い残した山崎家屋敷跡は現在、山﨑記念中野区歴史民俗資料館になっている彰義隊残した掛け軸は同資料館所蔵されている。隊士がたもとで傷の手当てをした巨木は今も敷地内残っている。 明治維新後の江古田村所属目まぐるしく変わる。1868年慶応4年7月武蔵知県事設置とともにその管轄になり、1869年明治2年2月品川県置かれるとそれへ移管された。1871年明治4年11月品川県廃止とともに東京府管轄になった1872年明治5年1月神奈川県管轄になり、同年8月東京府復した以後所属東京のまま変わらない所属する郡については、江古田村属す多摩郡1878年明治11年11月東西南北4分割された。江古田村東多摩郡属した明治初め農産物コメオオムギコムギキビトウキビヒエアズキゴマソバナタネダイコンナスキュウリゴボウタケノコカキクリ鶏卵などで、ほかに醤油油類製造されていた(1872年東京府調査)。茶の栽培1874年明治7年)ごろから始まった村民雑木林開拓して茶園にした。宅地空いているところもみな茶園にした。製茶大正末まで行われたダイコンもよくできた。生だと重いので沢庵漬け加工して出荷した秋に田園に白い干し大根並んだ養蚕明治の頃から大正初めまで行われた長野県の人から指導受けた副業植木苗木育てたウメモモナンテンなどの生け花用の木も栽培した桜湯にするサクラの花を摘んだ1882年明治15年)に村内小学校建てられた。江古田村当初1876年明治9年)に設立され豊玉小学校学区属したが、村外建てられ本校児童の足では遠いので、村内東福寺寺子屋分校にした。1880年明治13年)に東福寺住職が外に転居したため、和田山(現・哲学堂公園)にある五辻家別邸借りて学校にした。ここも使用できなくなったので、1882年2月4日村内遷喬小学校開設した江古田小学校前身である。敷地現在地江古田2-13-28)近く別の場所(現・江古田2-6であった校舎建材用いるため、村内第六天社境内ケヤキ伐採した周囲丈余り(6メートル超)もある大木で、明治初めに神木とされていた。幹には数人入れるほどの大きなウロ(となりのトロロ寝てたような空間)があった。木の根が畑に入り込んで耕作邪魔だというので村民協力して巨木を伐り倒し校舎建材として大八車運んだ

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