明治の採掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 06:39 UTC 版)
1898年(明治31年)、尾道市の鳥居家が資本を提供して採掘が始まった。鳥居家の番頭を務めていた小西が現地に常駐し、採炭主任に採用された岡本関太郎が九州北部の炭鉱地帯より数名の熟練炭鉱夫を招いて採掘を開始した。坑道の入り口は、当時三方屋石井氏が所有していた水田に設けられた。坑口があった水田は後に「炭鉱田」と呼ばれた。坑道は炭鉱田から南東方向に向かって小川保氏宅の直下へ本坑が掘削された。本坑の途中からは、右側(東側)に分枝して現在の福山市立本郷小学校方面に向かう坑道があった。坑道の左右に支柱が立てられ板材で合掌組の天井が造られた。壁は8分板が使われた見事な坑道で、必要な木材は小原村の茂七という人物が山から切り出して準備した。鉱夫は小川孫左衛門宅の別棟で生活し、地元の飯炊き係の婦人や水汲係などを加えて総勢20名程で採掘作業を行った。石炭は叺(かます)に入れて大八車で松永駅に運び、鉄道で出荷した。石炭の品質は芳しくなく亜炭が中心であった。品質が悪く出荷できない石炭は、下土井前の本郷川の川原などに投棄された。明治32年の八幡社祭では今津村の衆と喧嘩があり、鉱夫達が短刀を懐に入れて駆けつけるという事件もあった。この時の採掘は1年ほどで中断され炭鉱は休山となった。採掘が打ち切られると、九州から招かれた鉱夫達は本郷村を去り故郷に戻っていった。その際に主任の岡本関太郎を筆頭に数名の鉱夫が、本郷在住の娘を嫁として連れ帰ったことが「ほほえましい出来事」として地誌に記されている。その後、鉱区になっていた水田が陥没する、小川保氏の自宅敷地に窪みができるなど坑道の崩落に伴う被害がでた。
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