絹織物業
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「チェシャーの絹関連産業」の記事における「絹織物業」の解説
マクルズフィールドに絹織りの技術が伝わったのは1790年のことで、レイとヴォウチェ(Leigh and Voce)という2人の人物が織機とユグノー教徒の絹織物職人を当地に紹介した。ユグノーらは自分たちの技術をバック通り(Back Street)の織物屋に教えた。マーガレット・モウボーン(Margaret Moborn)はそのようなユグノーの絹織物職人の一人であったが、スピタルフィールズを去ってマクルズフィールドのサンダーランド通りにある織物小屋でジェイムズ・ピアソン(James Pearson)のために働かないかと誘いを受けた。なお、メソディズム運動で知られるジョン・ウェスリー(1703-1791)をマクルズフィールドに説教に招いたのは、ジェイムズの父、ジョージ・ピアソンである。マーガレットはジェイムズと数年間同居しただけでなく、織機を使った織り方の基本を手ほどきした。ジョージ・ピアソン・アンド・サンズ(George Pearson and Sons)は、19世紀初頭にマクルズフィールドで一流のすぐれた絹織物業者となっていた。イギリスは1793年から1815年にかけて、再びフランスと戦争状態になり(ナポレオン戦争)、したがって織物産業は繁栄した。雇用された職人で、腕のいい者であれば週に18シリングを稼いだ。自営の職人であれば週に3ポンドまで稼いだが、これは徒弟たちの面倒を見るコストも込みだった。一般的に言って、フランスとの一連の戦争が終わるまでに、あるパターンが確立した。動力を用いる製糸業や人力による製糸業において、独立自営の織物小屋で人力による絹織物が行われなくなって行くというパターンである。 1815年から1820年の間は景気後退局面にあり、続く1820年代は好景気の時代であった。26カ所で製糸工場が新しく立ち上がり、製糸業者らはしばしばそれに絹織物を製造する織物小屋を付属させた。労働力は雇用労働者と請負労働者との間で均等に分けられ、作業はすべて手作業で行われた。1821年の人口 21,819人のうち、約10,000人が絹関連工場(silk factories)で雇用されていた。周辺の村々からマクルズフィールドにやってきた者もいたと考えられる。彼らは週に62時間労働し、男性なら11シリング稼いだ。絹製品及び生糸の需要は、1824年-1826年の間に減少した。工場は倒産し始め、1826年に70を数えた絹工場も1832年にはたったの41か所になった。賃金は半分になり、労働時間は短縮された。不景気は10年サイクルで続き、生き残った工場はさらに少数になったが、技術は洗練され、新しい製品も製造された。経営も手慣れたものとなった。ブロックルハースト家はこれら工場の中で最も大きくなった。 1830年代には、動力駆動式織機が完成し、製糸はスロットルと呼ばれる綿紡績機に似た、金属フレームのもので行われるようになった。これらは(新規工場の建造はなされず)既存の建物の中に導入されたとみられる。1820年代にはジャカード方式が手繰り織機に導入された。ジャカード方式を実現するジャカード・ヘッドは、普通の織機の上に設置するものである。そのため、これを収容するために織物工場の天井が高くなった。なお、力織機はきめの粗い幅広の生地にだけ適するものであるから、最上質の絹織物には手繰りの織機と複雑なジャカード方式が使用され続けた。1839年に、2人の絹織物職人、ジェイムズ・メイヤーズとジョン・ライルがマクルズフィールドを去り、大洋横断船マリオン号に乗ってニュージャージー州はパターソンに移住した。2人は1846年に共同で工場を開き、アメリカ合衆国の絹織物産業を創始した。マクルズフィールドが不況で困難な時期に、のべ3000人が町を離れてパターソンの2人の事業に参加した。1900年代のパターソンの地元紙には、マクルズフィールドの年代記から生誕・婚姻・死亡の記事が毎日のように引用された。 1850年以降、ストックポートやその他の町における製糸業・絹織物業(silk manufacture)が衰退し、マクルズフィールドが「絹の町」として知られるようになった。マクルズフィールドの企業は1851年のロンドン万国博覧会で、バンダナ・ハンカチーフ、ヴェルヴェット、サテンのリボンとショールを展示した。当地の絹産業は、綿織物やフランス産のシルクの嗜好が流行するにつれ、縮小した。1886年には労働力が5000人に縮小した。絹事業で成功した有力なファミリーは、市民生活と信仰においても顕著な活動を行った。彼らのほとんどは非国教徒の篤信家で、自社で働く労働者のために教会を建てた。シルクが貧困層の教育に充てられた。マクルズフィールド日曜学校(英語版)は、1796年に非国教徒らによって設立された教会学校で、現在ヘリテージ・センターが入居している大きな建物は、1813-1815年建造である。ここでは毎年、2500人の子どもが仕事のない日曜日に公的教育を受けた。これに対抗してアングリカンらは、デューク通りに面したところにナショナル・スクールを建てた。これは1960年まで全日制の学校として利用され続けた。徒弟に必要とされる技術的なスキルは、技術学校で身につけることができ、美術学校ではデザイナーを養成した。
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絹織物業
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江戸末期から明治にかけて、絹織物の人気ブランドとして「秩父銘仙」が全国的に広まる。洋服が主流になった現在では生産量が減少したが、ちちぶ銘仙館などの観光施設では土産・特産物として販売されている。
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