明治の変革
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「王政復古の大号令」によって設置された総裁・議定・参与の三職のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正・福岡孝弟・木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。慶応4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが五箇条の御誓文である。 一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ — 「五箇条の御誓文」 政府は、この五箇条の御誓文に示された諸原則を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。すなわち、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官を公議輿論の中心となる立法議事機関として議政官とすることなどを定めた。議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成とし、下局は各藩の代表者1名から3名からなる貢士をその構成員とするものだった。しかし戊辰戦争終結の見通しがつき始めると、政府は公議輿論の尊重には消極的となり、結局同年9月に議政官は廃止されてしまった。 明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として公議所が設置された。これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月には集議院に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施されると、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。 1874年(明治7年)、前年の明治六年政変で征韓論の争議に敗れて下野した副島種臣・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは連署により民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。これを契機として薩長藩閥による政権運営に対する批判が噴出、これが自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。さらにこの頃には各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。 1875年(明治8年)4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が渙発された。 ……茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ圖リ漸次ニ國家立憲ノ政體ヲ立汝衆庶ト倶ニソノ慶ノ賴ラント欲ス…… — 「立憲政体の詔書」(抄) すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言したのである。これは、大久保利通や伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して各府県に民選の地方議会である府県会を設置した。これが日本で最初の民選議会となった。
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