明治の「応挙」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:02 UTC 版)
明治以降は京都に永住し、幕末期に志士とともに国事に奔走した面影はなく、悠々と絵三昧の生活をおくる。塩川文麟らと如雲社に参加、文麟没後、同社および京都画壇の中心的存在となる。内国勧業博覧会など各種博覧会にも数多く出品し、しばしば高い賞を受けた。1880年(明治13年)京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)設立に伴って出仕となり、2年後には実際に画学講座を担当している。1890年(明治23年)10月2日には帝室技芸員を拝命。1894年(明治27年)前年に患った肺炎が再発し、室町二条の自宅で没する。享年81。墓所は清閑寺霊山町神葬墓地。死にともない『京都美術協会雑誌』は、「今此の明治の応挙を失ひたるを悼む」と、その死をおくった。 応挙以後の円山派は、対象の形を写し取ることにとらわれ、次第に形骸化していった。そこで寛斎は、南画を手本に滲みや掠れといった墨の多彩な表現を取り入れた雅趣に富む筆法を追求し、単なる写生に留まらない臨場感ある表現を追求した。 子は無く、弟子の森雄山、森直愛、森松雨(西川貞吉)を養子にした。門下に野村文挙、山元春挙、巌島虹石、奥谷秋石らがいる。 1928年(昭和3年)、正五位を追贈された。
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