明治から第二次世界大戦まで
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「三島市」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説
1868年(明治元年):韮山県に属する。 1871年(明治4年):韮山県が分割され、小田原県に属する。小田原県が足柄県となる。 1876年(明治9年)4月18日:足柄県が分割され、以降は静岡県に属する。 1886年(明治19年):君沢・田方郡衙が韮山から三島に移転。 1892年(明治25年):小松宮が別邸楽寿園を建築。 1898年(明治31年):豆相鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)が開業。当時の三島駅は現在の下土狩駅。 1906年(明治39年):駿豆電気鉄道(三島広小路・沼津間路面電車、1963年廃止)が開業。 1918年(大正7年)4月:中郷村の精錬工場による鉱毒公害で反対運動(北沢亜鉛鉱滓問題) 1919年(大正8年):野戦重砲兵第二連隊が、翌年には野戦重砲兵第三連隊が置かれる。 1923年(大正12年):関東大震災で被害。 1929年(昭和4年):三島測候所開設。 1934年(昭和9年):北伊豆地震で、広小路以東が被害。 1934年(昭和9年)10月1日:丹那トンネルが開通し、東海道本線三島駅(二代目)が開業し旧三島駅は下土狩駅に改称。 1934年(昭和9年)12月1日:伊豆箱根鉄道駿豆線が東海道線経路変更に伴い三島広小路-下土狩間を廃止し三島広小路-三島駅(二代目)開業。 1942年(昭和17年):三島に初めての空襲。
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明治から第二次世界大戦まで
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「清水市」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説
1868年(明治元年):旧幕府軍咸臨丸が補修のため清水港に停泊中、官軍に襲われ旧幕府軍乗組員は全員死亡。遺体が清水港に浮かぶが官軍の威を恐れて誰も手をつけなかった。これを清水次郎長一家が「死ねば仏」と言って、遺体を引き上げ葬った(壮士の墓)。 1869年:片平信明、村再生のため庵原に日本初の夜学校を開校。 1889年2月1日:東海道本線が開通し、江尻駅(現清水駅)が開設される。 1889年10月1日:町村制施行に伴い、有渡郡に清水町・入江町・不二見村・三保村が発足、庵原郡に江尻町が発足した。 1893年4月9日:江尻町から辻村が分立する。 1896年4月1日:有渡郡が廃止され、安倍郡に編入される。 1899年:清水港が貿易港の指定を受ける。 明治中期〜昭和前期:三保は砂地で農業に不適な土地であったため、当地から多くの人間が仕事を求めて、アメリカ合衆国に移民として渡米した。 1912年:日本初の鉄筋コンクリート製灯台(三保灯台、日本の近代化産業遺産)初点灯。 1912年:桜の苗木を興津農事試験場にて育苗、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.に贈る。※前回贈呈した、他所の苗木は害虫多く米国で全て焼却された。興津では日本の名誉をかけ、熊谷技師達が接ぎ木、施肥、除草など精魂をこめた結果、健全な苗が作られた。 1918年8月1日:辻村が町制を施行し、辻町となる。 1924年1月13日:安倍郡入江町が庵原郡江尻町・辻町を編入する。 1924年2月11日:清水町、入江町、不二見村、三保村が合併し、面積25.34 km²、人口約43,000人の清水市となった。全国で第101番の市制施行。 1939年〜:日本軽金属、東亜燃料、日立製作所等々の軍事工場が次々に進出。 1940年:最後の元老西園寺公望が興津坐漁荘にて死去。 1943年:清水高等商船学校設立。戦後商船大学となり、1957年に東京へ移転、東京商船大学となった。 1945年7月7日:清水大空襲。同月30日夜半から31日未明、アメリカ海軍駆逐艦の艦砲射撃。
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明治から第二次世界大戦まで
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「新卒一括採用」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説
新規学卒者の一括採用制度が始まったのは1895年の三菱(当時の日本郵船)と三井銀行からであるとされているが、一般的になるのは20世紀に入ってからである。この当時、職員の採用は随時必要に応じておこなわれていたが、採用には試験や学歴よりも関係者の紹介が重視されており縁故採用が多かった。1914年から第一次世界大戦が始まり日本は大戦景気に沸いたが、それによる人手不足から来る就職売り手市場によって学校卒業前に入社選考と採用を行う慣行が始まった。卒業前の採用慣行は第一次世界大戦後も続けられた。1927年には昭和金融恐慌と、それに続く世界恐慌から学生の就職難が社会問題となった(当時の映画「大学は出たけれど」も参照)。このような恐慌下で、1928年に三井三菱などの大手銀行を中心とする頭取重役の集まりである常盤会の意向により、大学および文部省に働きかけが行なわれ、翌年1929年の学生の定期採用は卒業後に行なうこととする協定が結ばれた。就職協定の原型である。にもかかわらず、優秀な学生を確保したい企業による、学生の就職難への不安につけこんだ早期の選考は、この協定後も改まらなかった。その後景気が回復しても企業・学生双方による協定破りは絶えず、ついには1935年6月に三菱の提案で協定は正式に破棄されることとなった。なお、今日まで使われる「内定」という言葉は、この協定によって使われるようになったのだと言われている。つまりは、協定によって「採用決定」が卒業後ということに決められたため、在学中の事実上の採用決定を「内定」と呼ぶことになったのである。 その後第二次世界大戦に入り、戦時統制のなかで1938年の学校卒業者使用制限令により、大学の工学部と理工学部、工業専門学校、工業実業学校の学生の就職は国家によって統制されることとなった。
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明治から第二次世界大戦まで
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「茨城県」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説
現県域には水戸藩他14藩と県域外諸大名の飛び地、幕領・旗本領などが錯綜していた。1868年(慶応4年、明治元年)、幕府の解体により旧・幕領・旗本領は新政府の直轄地とされ、6月に粥川満明(三上藩士)が常陸知県事に、8月には佐々府貞之丞(肥後藩士)が下総知県事に任命され、常総の民政を担当した。翌1869年(明治2年)1月に下総知県事の管轄地が葛飾県、2月に常陸知県事の管轄地が若森県になった。こうした動きの中で、同年7月に版籍奉還が行われ、1871年8月(明治4年7月)の廃藩置県を経て、同年11月、現在の県域は茨城県および新治県、印旛県のそれぞれ一部に統合された。1875年(明治8年)5月に新治県が分割され、そのうち常陸国6郡が茨城県と合併し、同時に千葉県(1873年(明治6年)に印旛県と木更津県が合併)から概ね利根川以北に当たる区域を編入して現在の茨城県が成立した。 1868年(慶応4年、明治元年)1月24日 - 松岡藩設置。 4月5日 - 討幕軍、結城城を攻撃し、落城。 4月11日 - 徳川慶喜、江戸より水戸へ退去し、弘道館で謹慎。 6月27日 - 常陸知県事任命。 7月14日 - 志筑藩設置。 8月8日 - 下総知県事任命。 10月1日 - 弘道館の戦い。 1869年(明治元年、2年)1月13日 - 下総知県事の管轄区域をもって葛飾県が成立(県庁所在地は現・千葉県流山市)。 2月9日 - 常陸知県事の管轄区域をもって若森県が成立(県庁所在地は現・つくば市⇒若森県庁参照)。 6月17日 - 版籍奉還を受けた政府が徳川昭武を水戸藩知事(知藩事)に任命。以下、6月24日まで現県域内各藩主が知藩事に任命される。現県域内に藩庁を置く藩:水戸藩、松岡藩、宍戸藩、笠間藩、下館藩、下妻藩、麻生藩、石岡藩(旧・常陸府中藩)、土浦藩、志筑藩、牛久藩、谷田部藩、結城藩、古河藩 1870年(明治3年、4年)12月 - 水戸藩禄制改革。 12月24日 - 守山藩(磐城国)の移転により松川藩成立。 1871年(明治4年)2月7日 - 谷田部藩が下野国に移転、茂木藩となる。 2月8日 - 大網藩(上総国)の移転により龍崎藩成立。 7月14日 - 廃藩置県により、現県域内3県15藩が18県となる。従来の県が継続:若森県、葛飾県、宮谷県 藩から県へ転換:水戸県、松岡県、宍戸県、笠間県、下館県、下妻県、麻生県、石岡県、土浦県、志筑県、牛久県、松川県、龍崎県、結城県、古河県 11月14日 - 府県統合により現県域内に以下の3県が成立。水戸県、松岡県、宍戸県、笠間県、下館県、下妻県→茨城県 若森県、麻生県、石岡県、土浦県、志筑県、牛久県、松川県、龍崎県、多古県、小見川県、高岡県→新治県 葛飾県、結城県、古河県、関宿県、佐倉県、生実県、曾我野県→印旛県 宮谷県は木更津県に統合されるが、常陸・下総国内の同県管轄地は新治県に編入される。 各県の管轄区域は以下の通り。茨城県(県庁所在地:茨城郡水戸):常陸国多賀郡、久慈郡、那珂郡、茨城郡、真壁郡 新治県(県庁所在地:新治郡土浦):常陸国鹿島郡、行方郡、新治郡、筑波郡、信太郡、河内郡、下総国海上郡、匝瑳郡、香取郡 印旛県(県庁所在地:葛飾郡加村〈現・流山市〉):下総国結城郡、豊田郡、岡田郡、猿島郡、葛飾郡、相馬郡、印旛郡、埴生郡、千葉郡 1872年(明治4年、5年)1月29日 - 水戸・弘道館裏に県庁開設。 1873年(明治6年)2月3日 - 水戸に県下初の共立小学校創設。 4月 - 茨城県議事条例制定。 6月15日 - 印旛県と木更津県が合併し、千葉県が成立(県庁所在地:千葉郡千葉)。 1875年(明治8年)5月7日 - 新治県が廃止・分割され、同県管下のうち下総国3郡は千葉県、常陸国6郡が茨城県と合併される。同日、千葉県管下のうち結城、岡田、豊田、猿島の4郡および葛飾、相馬2郡の利根川以北が茨城県に移管され、17郡を管下とする現在の茨城県が成立した。 9月15日 - 大区・小区制改正、12大区133小区に区分。 1876年(明治9年)11月27日 - 真壁郡吉間村他数か村で農民一揆。 12月8日 - 那珂郡小瀬地方で農民一揆。 1878年(明治11年) - 郡区町村編制法により茨城郡を東茨城郡、西茨城郡に分割、茨城県管下の葛飾郡を西葛飾郡、相馬郡を北相馬郡と改称。県下18郡となる。 1888年(明治21年) - 県内人口が100万人を突破。 1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制施行、水戸市が発足。 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制施行。信太郡と河内郡が合併して稲敷郡となり、豊田郡および岡田郡が結城郡と、西葛飾郡が猿島郡と合併して県下14郡となる。 1899年(明治32年)4月1日 - 千葉県香取郡の一部(利根川および横利根川以北)を稲敷郡に編入。現・茨城県の県域がほぼ確定する。 1939年(昭和14年)9月1日 - 日立市市制施行。 1940年(昭和15年)11月3日 - 土浦市市制施行。
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明治から第二次世界大戦まで
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「水戸市」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説
1871年(明治3年)8月29日:廃藩置県により茨城県に属し、水戸は県庁所在地となった。 1889年(明治22年)4月1日:市制施行により水戸市となる。市制施行の人口は2万2993人で、日本で最初に市制施行した31市の一つである。 1891年(明治24年):茨城新聞社創立。 1896年(明治29年):偕楽園にて「水戸の梅まつり」が始まる。 1897年(明治30年)2月25日:常磐線水戸駅開通。水戸測候所(現在の水戸気象台)開設。 1906年(明治39年):大日本史完成(1657年着手)。 1907年(明治40年):水戸市に初めて電灯が灯り、電話も一部で開通する。 1910年(明治43年):電話と電気が、当時の市内全域で使用可能となる。 1918年(大正7年)3月25日:蒸気機関車の火の粉から火災が発生。約1100戸が焼失する大火になる。 1920年(大正9年):旧制水戸高等学校(現茨城大学)創立。 1926年(大正15年):水戸市立高等女学校創立。 1929年(昭和4年)11月10日:水戸電気鉄道線(下水戸 - 常陸長岡)間が開通。 1933年(昭和8年):東茨城郡常磐村を編入。 1938年(昭和13年):満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所開設。 1938年(昭和13年)11月29日:水戸電気鉄道線全線廃止。 1944年(昭和19年):ペリリューの戦いにおいて、水戸歩兵第2連隊玉砕。第2連隊将兵約3000名中生存者34名。 1945年(昭和20年):艦砲射撃、8月2日のB-29による水戸空襲のため、市内の4分の3を焼失。水戸城御三階櫓焼失。
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明治から第二次世界大戦まで
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「弘前市」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説
1871年(明治04年)7月14日 - 廃藩置県により弘前県設置。 1871年(明治04年)9月 - 弘前県が青森県となり現在の規模になる。県庁が青森市に移転。 1872年(明治05年)11月27日 - 私立東奥義塾設立。 1873年(明治06年)10月1日 - 朝陽小学校完成。 1877年(明治10年)8月 - 西洋りんごが本県において初成り。 1878年(明治11年)3月 - 第五十九国立銀行開設(県内最初の銀行)。 1878年(明治11年)10月30日 - 青森県での郡区町村編制法施行により、津軽郡のうち弘前城下ほか1町111村の区域に行政区画としての中津軽郡が発足し、郡役所が弘前城下に設置される。 1883年(明治16年)8月 - 弘前農具会社設立。 1889年(明治22年)4月1日 - 全国30市とともに市制施行(県内初)し、弘前城下の大部分(紙漉町を除く)の区域をもって弘前市が発足。市制施行時の人口は3万1375人・世帯数は6240世帯。 1894年(明治27年)12月1日 - 奥羽本線弘前駅 - 青森駅間開通。 1895年(明治28年)5月21日 - 弘前公園が市民に一般開放される。 1898年(明治31年)10月 - 東北地方北半を管区とする第8師団が設置される。 1900年(明治33年) - 市章を卍に制定。 1901年(明治34年) - 市立弘前病院設置。 1906年(明治39年)3月22日 - 弘前市立図書館(堀江佐吉らによる洋風建築)竣工。 1906年(明治39年)5月10日 - 弘前市立図書館開館。 1909年(明治42年)6月1日 - 市内に電話開通。 1910年(明治43年)4月1日 - 県立工業学校(現・弘前工業高校)開校。 1918年(大正07年)5月7日 - 第一回観桜会(さくらまつり)開催。 1921年(大正10年)4月16日 - 官立弘前高等学校開校 1923年(大正12年)7月1日 - 県立工業試験場開設 1927年(昭和02年)9月7日 - 弘南鉄道弘前駅 - 尾上駅間開通。 1936年(昭和11年)1月1日 - 弘前駅を含む和徳村大字和徳、高崎、堅田(一部)を編入。 1938年(昭和13年)2月21日 - NHK弘前放送局開局。
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明治から第二次世界大戦まで
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「千葉県の歴史」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説
明治天皇 陸軍工兵学校正門 (現・松戸中央公園正門) 鉄道第2連隊正門(現・千葉工業大学正門) 宮内庁下総御料牧場跡(現・三里塚記念公園) 大正時代の中山競馬場 慶応4年4月11日(1868年5月3日)の江戸城無血開城に前後して、下総西部から下野地方の一帯では3月から4月にかけて結城城の争奪戦が行われ、4月には旧幕府歩兵奉行大鳥圭介の部隊2000人が市川、結城、宇都宮、さらに会津へと転戦していった。一方、上総西部に旧幕府撒兵隊が「徳川義軍府」を称して侵入し、周辺各地から物資や武器、兵員を徴発し、4月下旬には下総西部まで進軍した。海上では旧幕府海軍副総裁榎本武揚が軍艦7隻を率いて館山湾に入り、一部は上陸した。また、請西藩主林忠崇が新政府軍に抵抗して旧幕府軍に身を投じた。しかし、市川・船橋戦争・五井戦争と呼ばれる戦闘が生じたのみで、戊辰戦争に巻き込まれずに明治を迎える。 明治元年(慶応4年)9月(1868年10月)、明治と改元される。すでに政体書によって決まっていた府藩県三治の地方制度が、6月頃から関東地方で実施され始めた。幕末期の房総地方には17藩が所在したが、かつての将軍家であった徳川宗家が駿河・遠江をもって静岡藩70万石に移封されたことに伴ってそれまで両国にあった7藩が移封となり、また林忠崇の請西藩(1万石)が改易処分を受けたために、明治元年末(1869年初め)には23藩の多数にのぼった。そのため明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県が実施されると、26県という多数の県が並立することとなった。しかし、同年11月の全国的な県の廃合で新治県・木更津県・印旛県の3県に統合された。次いで、1873年(明治6年)6月15日、印旛県と木更津県の合併により千葉県が誕生、県庁が千葉町(現・本千葉町)に開設された。千葉県権令には柴原和が就任した。1875年(明治8年)5月7日に新治県の茨城県編入に伴い、千葉県であった結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡4郡と葛飾・相馬両郡の一部を茨城県に譲渡して、香取郡・匝瑳郡・海上郡を旧新治県から編入した。次いで葛飾郡のうち江戸川以西を埼玉県に移管し(のち中葛飾郡を経て北葛飾郡の一部)、さらに1899年(明治32年)4月1日に香取郡の利根川以北が茨城県に編入されている。これにより、現在の県域がほぼ確定した。 明治2年(1869年)には、明治政府によって、東京在住の旧士族出身者を始めとする失業者の救済のために旧幕府牧の開墾事業が計画され、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三などの村が新しく作られた。 また、東京に近かったことから、1873年(明治6年)に明治天皇が習志野原へ御幸して以来、首都防衛を名目に、習志野を始め千葉、市川、柏、松戸、佐倉、四街道、茂原、木更津、富津、館山のような多くの軍事拠点(軍郷)が造られた。太平洋戦争(大東亜戦争)の際には、風船爆弾によるアメリカ本土空襲のための前線基地も置かれた。なお、県や各市町村も、このような軍事拠点を造ることが重要な産業基盤につながると捉え、競って誘致を推進した。その中でも千葉市は、千葉連隊区司令官を始め多くの軍学校や軍営施設が造られたことから、軍都千葉と呼ばれた。 1904年(明治37年)に勃発した日露戦争では、習志野騎兵連隊の活躍は有名で、沙河会戦、黒溝台会戦・奉天会戦などで騎兵戦術を駆使して活躍、秋山好古少将と共に千葉県の知名度を高めた。また、映画「戦場に架ける橋」のモデルとなった鉄道連隊もよく知られており、県内では現在の東武野田線、久留里線、小湊鉄道などのインフラ整備に貢献している。 近代になると、官主導のもと近代産業の育成が行われたが、千葉県では地下資源に恵まれなかったことから、近代工業が育たず、開発から大きく取り残される形となった。だが、江戸時代以降の醤油・みりんといった醸造業は近代に入っても発展を続け、1928年(昭和3年)には戦前の労働争議でも最大規模の野田醤油労働争議が発生した。他の発達産業としては、従来の農業・水産・林業に加え、銚子の缶詰産業や旧幕府牧馬跡などを利用した酪農が有名である。1875年(明治8年)に旧佐倉牧の跡地(現・成田市)に下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)が設置されると、酪農に関する研究も盛んに行われ、県の主要産業のひとつとなった。なお、御料牧場は後述する新東京国際空港の建設地の一部となり、1969年(昭和44年)に栃木県高根沢町に移転することとなる。 一方、南房総では、地場産業であったヨード製造の事業を背景に、実業家の森矗昶によって森コンツェルンが創業された。森コンツェルンはアルミニウムなどの金属産業、電気産業、化学工業産業などを中心とするコンツェルンに発展、日本産業、日本窒素肥料、日本曹達、理化学研究所とともに新興コンツェルンと呼ばれた。 大正・昭和初期にかけて鉄道を始めとする交通機関が発達すると東京湾沿線沿いや銚子、一宮などの九十九里浜沿岸、南房総には、避暑地や観光地が整備された。また、谷津遊園、中山競馬場などの娯楽施設が造られ、観光産業 が盛んとなった。 1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、千葉県も重要な食料生産拠点として、食糧増産が各地で行なわれ、肥料の不足や徴兵による人手不足の中で、厳しい供出割当が組まれた。大戦末期になると、航空機燃料のための松根油の生産も北総地域を中心に盛んに行われた。一方、工業方面では、東京に近い市川市・船橋市・津田沼町、千葉市にかけて軍需工場が次々と移転、地域の中小企業も合併が進められ、その多くは、陸海軍関係の下請け工場として再編成された。1942年(昭和17年)には、東京湾の埋め立工事が進められ、日立航空機千葉工場が建設された。さらに大戦末期には、大網・茂原・興津・鴨川などに大規模な地下工場も造られ、千葉県の工業化比率は大きく進んだ。新たに東京帝国大学第二工学部(現在の東京大学生産技術研究所千葉実験所)が千葉市に新設されると、造兵研究の拠点ともなった。 1944年(昭和19年)、サイパン島・グアム島・テニアンが占領され、日本本土への空襲が本格化すると、房総半島はB-29爆撃機の進入ルートとなり、現在の成田市から習志野市の上空では激しい航空戦が行なわれるようになった。しかし、県内の被害は軽微で、空母や硫黄島から飛来した航空機(F6Fヘルキャット・F4Uコルセア・P51ムスタングなど)が軍関係施設や港湾施設、工場や学校、集落に対して機銃掃射を加えたり、爆撃隊が帰還途中に不要爆弾破棄のため、投下するようなことはあったが、千葉空襲、銚子空襲以外に本格的な空襲が実施されることはなかった。 大戦末期になると、本土決戦の可能性が高まり、連合国軍の上陸の可能性が最も高い場所として、日本軍と連合国軍両者 とも同じく九十九里浜を挙げており、日本軍および大政翼賛会は住民志願者を募り、国民義勇軍防衛隊を組織、竹槍による軍事教練や陣地構築が実施されたが、日本の降伏により、県内では地上戦は行われずに終戦を迎えた。この時、小磯国昭首相に代わり、下総関宿藩士出身の鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織、終戦工作に奔走し、終戦内閣と呼ばれた。
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