明治から第二次世界大戦までとは? わかりやすく解説

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明治から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:46 UTC 版)

三島市」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説

1868年明治元年):韮山県属する。 1871年明治4年):韮山県分割され小田原県属する。小田原県足柄県となる。 1876年明治9年4月18日足柄県分割され以降静岡県属する。 1886年明治19年):君沢田方郡衙が韮山から三島移転1892年明治25年):小松宮別邸楽寿園建築1898年明治31年):豆相鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)が開業当時三島駅現在の下土狩駅1906年明治39年):駿豆電気鉄道三島広小路沼津路面電車1963年廃止)が開業1918年大正7年4月中郷村精錬工場による鉱毒公害反対運動北沢亜鉛鉱滓問題1919年大正8年):野戦重砲第二連隊が、翌年には野戦重砲第三連隊置かれる1923年大正12年):関東大震災被害1929年昭和4年):三島測候所開設1934年昭和9年):北伊豆地震で、広小路以東被害1934年昭和9年10月1日丹那トンネル開通し東海道本線三島駅二代目)が開業し三島駅下土狩駅改称1934年昭和9年12月1日伊豆箱根鉄道駿豆線東海道線経路変更に伴い三島広小路-下土狩間を廃止し三島広小路-三島駅二代目開業1942年昭和17年):三島初めての空襲

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明治から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 14:10 UTC 版)

清水市」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説

1868年明治元年):旧幕府咸臨丸補修のため清水港停泊中、官軍襲われ旧幕府乗組員全員死亡遺体清水港に浮かぶが官軍の威を恐れて誰も手をつけなかった。これを清水次郎長一家が「死ねば仏」と言って遺体引き上げ葬った壮士の墓)。 1869年片平信明再生のため庵原日本初夜学校開校1889年2月1日東海道本線開通し江尻駅(現清水駅)が開設される1889年10月1日町村制施行に伴い有渡郡清水町入江町不二見村三保村発足庵原郡江尻町発足した1893年4月9日江尻町から辻村分立する。 1896年4月1日有渡郡廃止され安倍郡編入される1899年清水港貿易港指定を受ける。 明治中期昭和前期三保砂地農業不適な土地であったため、当地から多く人間仕事求めてアメリカ合衆国移民として渡米した1912年日本初鉄筋コンクリート灯台三保灯台日本近代化産業遺産)初点灯1912年苗木興津農事試験場にて育苗アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.に贈る。※前回贈呈した他所苗木害虫多く米国全て焼却された。興津では日本の名誉をかけ、熊谷技師達が接ぎ木施肥除草など精魂をこめた結果健全な作られた。 1918年8月1日辻村が町制を施行し辻町となる。 1924年1月13日安倍郡入江町庵原郡江尻町辻町編入する1924年2月11日清水町入江町不二見村三保村合併し面積25.34 km²人口43,000人の清水市となった全国で第101番の市制施行1939年〜:日本軽金属東亜燃料日立製作所等々軍事工場次々進出1940年最後元老西園寺公望興津坐漁荘にて死去1943年清水高等商船学校設立戦後商船大学となり、1957年東京へ移転東京商船大学となった1945年7月7日清水大空襲同月30日夜半から31日未明アメリカ海軍駆逐艦艦砲射撃

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明治から第二次世界大戦まで

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新卒一括採用」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説

新規学卒者一括採用制度始まったのは1895年三菱当時日本郵船)と三井銀行からであるとされているが、一般的になるのは20世紀入ってからである。この当時職員の採用随時必要に応じておこなわれていたが、採用には試験学歴よりも関係者紹介重視されており縁故採用多かった1914年から第一次世界大戦始まり日本大戦景気沸いたが、それによる人手不足から来る就職売り手市場によって学校卒業前に入社選考採用を行う慣行始まった卒業前の採用慣行第一次世界大戦後続けられた。1927年には昭和金融恐慌と、それに続く世界恐慌から学生就職難社会問題となった当時の映画大学は出たけれど」も参照)。このような恐慌下で、1928年三井三菱などの大手銀行中心とする頭取重役集まりである常盤会の意向により、大学および文部省働きかけが行なわれ、翌年1929年学生定期採用卒業後に行なうこととする協定結ばれた就職協定原型である。にもかかわらず優秀な学生確保したい企業による、学生就職難への不安につけこんだ早期選考は、この協定後も改まらなかった。その後景気回復して企業学生双方による協定破り絶えず、ついには1935年6月三菱提案協定正式に破棄されることとなった。なお、今日まで使われる内定」という言葉は、この協定によって使われるようになったのだと言われている。つまりは、協定によって「採用決定」が卒業ということ決められたため、在学中事実上採用決定を「内定」と呼ぶことになったのであるその後第二次世界大戦入り戦時統制のなかで1938年学校卒業使用制限令により、大学工学部理工学部工業専門学校工業実業学校学生就職国家によって統制されることとなった

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明治から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:15 UTC 版)

茨城県」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説

現県域には水戸藩14藩と県域外諸大名飛び地幕領旗本領などが錯綜していた。1868年慶応4年、明治元年)、幕府解体により旧・幕領・旗本領は新政府直轄地とされ、6月粥川満明(三上藩士)が常陸知県事に、8月には佐々府貞之丞(肥後藩士)が下総知県事任命され常総民政担当した。翌1869年明治2年1月下総知県事管轄地葛飾県2月常陸知県事管轄地若森県になったこうした動きの中で、同年7月版籍奉還が行われ、1871年8月明治4年7月)の廃藩置県経て同年11月現在の県域は茨城県および新治県印旛県それぞれ一部統合された。1875年明治8年5月新治県分割されそのうち常陸国6郡が茨城県合併し同時に千葉県1873年明治6年)に印旛県木更津県合併)から概ね利根川以北に当たる区域編入し現在の茨城県成立した1868年慶応4年、明治元年1月24日 - 松岡藩設置4月5日 - 討幕軍、結城城攻撃し落城4月11日 - 徳川慶喜江戸より水戸退去し弘道館謹慎6月27日 - 常陸知県事任命7月14日 - 志筑藩設置8月8日 - 下総知県事任命10月1日 - 弘道館戦い1869年明治元年2年1月13日 - 下総知県事管轄区域をもって葛飾県成立県庁所在地は現・千葉県流山市)。 2月9日 - 常陸知県事管轄区域をもって若森県成立県庁所在地は現・つくば市若森県庁参照)。 6月17日 - 版籍奉還受けた政府徳川昭武水戸藩知事知藩事)に任命。以下、6月24日まで現県域内各藩主が知藩事任命される。現県域内藩庁を置く藩:水戸藩松岡藩宍戸藩笠間藩下館藩下妻藩麻生藩石岡藩(旧・常陸府中藩)、土浦藩志筑藩牛久藩谷田部藩結城藩古河藩 1870年明治3年4年12月 - 水戸藩禄制改革12月24日 - 守山藩磐城国)の移転により松川藩成立1871年明治4年2月7日 - 谷田部藩下野国移転茂木藩となる。 2月8日 - 大網藩上総国)の移転により龍崎藩成立7月14日 - 廃藩置県により、現県域内3県15藩が18県となる。従来の県が継続若森県葛飾県宮谷県 藩から県へ転換水戸県松岡県宍戸県笠間県下館県下妻県麻生県石岡県土浦県志筑県牛久県松川県龍崎県結城県古河県 11月14日 - 府県統合により現県域内に以下の3県が成立水戸県松岡県宍戸県笠間県下館県下妻県茨城県 若森県麻生県石岡県土浦県志筑県牛久県松川県龍崎県多古県小見川県高岡県新治県 葛飾県結城県古河県関宿県佐倉県生実県曾我野県印旛県 宮谷県木更津県統合されるが、常陸下総国内の同県管轄地新治県編入される各県管轄区域以下の通り茨城県県庁所在地茨城郡水戸):常陸国多賀郡久慈郡那珂郡茨城郡真壁郡 新治県県庁所在地新治郡土浦):常陸国鹿島郡行方郡新治郡筑波郡信太郡河内郡下総国海上郡匝瑳郡香取郡 印旛県県庁所在地葛飾郡〈現・流山市〉):下総国結城郡豊田郡岡田郡猿島郡葛飾郡相馬郡印旛郡埴生郡千葉郡 1872年明治4年5年1月29日 - 水戸弘道館裏に県庁開設1873年明治6年2月3日 - 水戸県下初の共立小学校創設4月 - 茨城県議事条例制定6月15日 - 印旛県木更津県合併し千葉県成立県庁所在地千葉郡千葉)。 1875年明治8年5月7日 - 新治県廃止・分割され、同県管下のうち下総国3郡は千葉県常陸国6郡が茨城県合併される同日千葉県管下のうち結城岡田豊田猿島の4郡および葛飾相馬2郡の利根川以北茨城県移管され、17郡を管下とする現在の茨城県成立した9月15日 - 大区・小区制改正12大区133小区区分1876年明治9年11月27日 - 真壁郡間村他数か農民一揆12月8日 - 那珂郡小瀬地方農民一揆1878年明治11年) - 郡区町村編制法により茨城郡東茨城郡西茨城郡分割茨城県管下葛飾郡西葛飾郡相馬郡北相馬郡改称県下18郡となる。 1888年明治21年) - 県内人口100万人を突破1889年明治22年4月1日 - 市制・町村制施行水戸市発足1896年明治29年4月1日 - 郡制施行信太郡河内郡合併して稲敷郡となり、豊田郡および岡田郡結城郡と、西葛飾郡猿島郡合併して県下14郡となる。 1899年明治32年4月1日 - 千葉県香取郡一部利根川および横利根川以北)を稲敷郡編入。現・茨城県の県域がほぼ確定する1939年昭和14年9月1日 - 日立市市制施行1940年昭和15年11月3日 - 土浦市市制施行

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明治から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:16 UTC 版)

水戸市」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説

1871年明治3年8月29日廃藩置県により茨城県属し水戸県庁所在地となった1889年明治22年4月1日市制施行により水戸市となる。市制施行人口2万2993人で、日本最初に市制施行した31市の一つである。 1891年明治24年):茨城新聞社創立1896年明治29年):偕楽園にて「水戸の梅まつり」が始まる。 1897年明治30年2月25日常磐線水戸駅開通水戸測候所現在の水戸気象台開設1906年明治39年):大日本史完成1657年着手)。 1907年明治40年):水戸市初め電灯灯り電話一部開通する1910年明治43年):電話電気が、当時市内全域使用可能となる。 1918年大正7年3月25日蒸気機関車火の粉から火災発生。約1100戸が焼失する大火になる。 1920年大正9年):旧制水戸高等学校(現茨城大学創立1926年大正15年):水戸市高等女学校創立1929年昭和4年11月10日水戸電気鉄道線下水戸 - 常陸長岡)間が開通1933年昭和8年):東茨城郡常磐村編入1938年昭和13年):満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所開設1938年昭和13年11月29日水戸電気鉄道線全線廃止1944年昭和19年):ペリリューの戦いにおいて、水戸歩兵第2連隊玉砕第2連隊将兵3000中生存者34名。 1945年昭和20年):艦砲射撃8月2日B-29による水戸空襲のため、市内4分の3焼失水戸城御三階櫓焼失

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明治から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 00:25 UTC 版)

弘前市」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説

1871年明治04年)7月14日 - 廃藩置県により弘前設置1871年明治04年)9月 - 弘前県が青森県となり現在の規模になる。県庁青森市移転1872年明治05年)11月27日 - 私立東奥義塾設立1873年明治06年)10月1日 - 朝陽小学校完成1877年明治10年8月 - 西洋りんごが本県において初成り1878年明治11年3月 - 第五十九国立銀行開設県内最初銀行)。 1878年明治11年10月30日 - 青森県での郡区町村編制法施行により、津軽郡のうち弘前城下ほか1町111区域行政区画としての中津軽郡発足し郡役所弘前城下に設置される1883年明治16年8月 - 弘前農具会社設立1889年明治22年4月1日 - 全国30とともに市制施行県内初)し、弘前城下の大部分紙漉町を除く)の区域をもって弘前市発足市制施行時人口は31375人・世帯数は6240世帯1894年明治27年12月1日 - 奥羽本線弘前駅 - 青森駅開通1895年明治28年5月21日 - 弘前公園市民一般開放される。 1898年明治31年10月 - 東北地方北半を管区とする第8師団設置される1900年明治33年) - 市章を卍に制定1901年明治34年) - 市立弘前病院設置1906年明治39年3月22日 - 弘前市立図書館堀江佐吉らによる洋風建築竣工1906年明治39年5月10日 - 弘前市立図書館開館1909年明治42年6月1日 - 市内電話開通1910年明治43年4月1日 - 県立工業学校(現・弘前工業高校開校1918年大正07年)5月7日 - 第一回観桜会さくらまつり開催1921年大正10年4月16日 - 官立弘前高等学校開校 1923年大正12年7月1日 - 県立工業試験場開設 1927年昭和02年)9月7日 - 弘南鉄道弘前駅 - 尾上駅開通1936年昭和11年1月1日 - 弘前駅を含む和徳村大字和徳、高崎堅田一部)を編入1938年昭和13年2月21日 - NHK弘前放送局開局

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明治から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 23:34 UTC 版)

千葉県の歴史」の記事における「明治から第二次世界大戦まで」の解説

明治天皇 陸軍工兵学校正門 (現・松戸中央公園正門鉄道第2連隊正門(現・千葉工業大学正門宮内庁下総御料牧場跡(現・三里塚記念公園大正時代中山競馬場 慶応4年4月11日1868年5月3日)の江戸城無血開城前後して下総西部から下野地方一帯では3月から4月にかけて結城城争奪戦が行われ、4月には旧幕府歩兵奉行大鳥圭介部隊2000人が市川結城宇都宮、さらに会津へと転戦していった。一方上総西部旧幕府撒兵隊が「徳川義軍府」を称して侵入し周辺各地から物資武器兵員徴発し、4月下旬には下総西部まで進軍した海上では旧幕府海軍副総裁榎本武揚軍艦7隻を率いて館山湾入り一部上陸したまた、請西藩林忠崇新政府軍抵抗して旧幕府軍に身を投じた。しかし、市川・船橋戦争五井戦争呼ばれる戦闘生じたのみで、戊辰戦争巻き込まれずに明治迎える。 明治元年慶応4年9月1868年10月)、明治改元される。すでに政体書によって決まっていた府藩県三治地方制度が、6月頃から関東地方実施され始めた幕末期房総地方には17藩が所在したが、かつての将軍家であった徳川宗家駿河遠江をもって静岡藩70万石移封されたことに伴ってそれまで両国にあった7藩が移封となり、また林忠崇請西藩1万石)が改易処分受けたために、明治元年末(1869年初め)には23藩の多数のぼった。そのため明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県実施されると、26県という多数の県が並立することとなった。しかし、同年11月全国的な県の廃合新治県木更津県印旛県の3県に統合された。次いで1873年明治6年6月15日印旛県木更津県合併により千葉県誕生県庁千葉町(現・本千葉町)に開設された。千葉県権令には柴原和就任した1875年明治8年5月7日新治県茨城県編入に伴い千葉県であった結城郡猿島郡岡田郡豊田郡4郡と葛飾相馬両郡の一部茨城県譲渡して、香取郡匝瑳郡海上郡を旧新治県から編入した。次いで葛飾郡のうち江戸川以西埼玉県移管し(のち中葛飾郡経て北葛飾郡一部)、さらに1899年明治32年4月1日香取郡利根川以北茨城県編入されている。これにより、現在の県域がほぼ確定した明治2年1869年)には、明治政府によって、東京在住の旧士族出身者始めとする失業者救済のために旧幕府牧の開墾事業計画され初富二和三咲豊四季五香六実七栄八街九美上十倉十余一十余二十余三などの新しく作られた。 また、東京近かったことから、1873年明治6年)に明治天皇習志野原御幸して以来首都防衛名目に、習志野始め千葉市川松戸佐倉四街道茂原木更津富津館山のような多く軍事拠点軍郷)が造られた。太平洋戦争大東亜戦争)の際には、風船爆弾によるアメリカ本土空襲のための前線基地置かれた。なお、県や各市町村も、このような軍事拠点造ることが重要な産業基盤につながると捉え競って誘致推進したその中で千葉市は、千葉連隊区司令官始め多く軍学校軍営施設造られたことから、軍都千葉呼ばれた1904年明治37年)に勃発した日露戦争では、習志野騎兵連隊活躍は有名で、沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術駆使して活躍秋山好古少将と共に千葉県知名度高めたまた、映画戦場に架ける橋」のモデルとなった鉄道連隊もよく知られており、県内では現在の東武野田線久留里線小湊鉄道などのインフラ整備貢献している。 近代になると、官主導のもと近代産業育成が行われたが、千葉県では地下資源恵まれなかったことから、近代工業が育たず、開発から大きく取り残されるとなった。だが、江戸時代以降醤油・みりんといった醸造業近代入って発展続け1928年昭和3年)には戦前労働争議でも最大規模野田醤油労働争議発生した。他の発達産業としては、従来農業水産林業加え銚子缶詰産業旧幕府牧馬跡などを利用した酪農が有名である。1875年明治8年)に旧佐倉牧跡地現・成田市)に下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)が設置されると、酪農に関する研究盛んに行われ、県の主要産業のひとつとなった。なお、御料牧場後述する新東京国際空港建設地一部となり、1969年昭和44年)に栃木県高根沢町移転することとなる。 一方南房総では、地場産業であったヨード製造事業背景に、実業家森矗昶によって森コンツェルン創業された。森コンツェルンアルミニウムなどの金属産業電気産業化学工業産業などを中心とするコンツェルン発展日本産業日本窒素肥料日本曹達理化学研究所とともに新興コンツェルン呼ばれた大正・昭和初期にかけて鉄道始めとする交通機関発達する東京湾沿線沿いや銚子一宮などの九十九里浜沿岸南房総には、避暑地観光地整備された。また、谷津遊園中山競馬場などの娯楽施設造られ観光産業 が盛んとなった1941年昭和16年)、太平洋戦争が始まると、千葉県重要な食料生産拠点として、食糧増産各地行なわれ肥料の不足や徴兵による人手不足の中で、厳し供出割当組まれた。大戦末期になると、航空機燃料のための松根油生産北総地域中心に盛んに行われた一方工業方面では、東京に近い市川市船橋市津田沼町千葉市にかけて軍需工場次々と移転地域中小企業合併進められ、その多くは、陸海軍関係の下請け工場として再編成された。1942年昭和17年)には、東京湾埋め工事進められ日立航空機千葉工場建設された。さらに大戦末期には、大網茂原興津鴨川などに大規模な地下工場造られ千葉県工業化比率大きく進んだ新たに東京帝国大学第二工学部現在の東京大学生産技術研究所千葉実験所)が千葉市新設されると、造兵研究の拠点ともなった1944年昭和19年)、サイパン島グアム島テニアン占領され日本本土へ空襲本格化すると、房総半島B-29爆撃機進入ルートとなり、現在の成田市から習志野市の上空では激し航空戦が行なわれるようになった。しかし、県内被害軽微で、空母硫黄島から飛来し航空機F6FヘルキャットF4UコルセアP51ムスタングなど)が軍関係施設港湾施設工場学校集落に対して機銃掃射加えたり爆撃隊が帰還途中不要爆弾破棄のため、投下するようなことはあったが、千葉空襲銚子空襲以外に本格的な空襲実施されることはなかった。 大戦末期になると、本土決戦可能性高まり連合国軍の上陸の可能性が最も高い場所として、日本軍連合国軍両者 とも同じく九十九里浜挙げており、日本軍および大政翼賛会住民志願者募り国民義勇軍防衛隊組織竹槍による軍事教練陣地構築実施されたが、日本の降伏により、県内では地上戦行われず終戦迎えた。この時、小磯国昭首相に代わり下総関宿藩出身鈴木貫太郎海軍大将内閣組織終戦工作奔走し終戦内閣呼ばれた

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