ヨード製造
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明治31年(1898年)に高等小学校を卒業すると、矗昶は為吉が新たに始めた「かじめ焼き」事業を手伝うことになる。これは海岸でとれる海藻のカジメを焼いてそこからヨードを製造するものである。矗昶は中学への進学を志していたが、明治33年(1900年)に満都が産褥で逝ったために断念する。翌年、勝浦の池平粗製沃度工場の見習い工となって技術を習得し、同じ年に稼働をはじめた為吉の粗製沃度工場を任された。昼間はカジメの買い付け、夜はかじめ焼きと、寝る間もないほど働き詰めた。明治37年(1904年)日露戦争が始まるとヨードの需要が高まり、一方で矗昶は徴兵検査乙種合格であったため出征を免れ、ヨード製造事業は順調に進展した。 明治38年(1905年)3月13日に、総野村(現在は勝浦市)杉戸の豪農、山口家から長女いぬを妻に迎える。このときの仲人が隣家の安西直一(後に千葉県会議長)だった。いぬは、矗昶の妹いうが千葉高女に通っていたときの友人であったが、いぬはそのことを知らされずに婚礼に臨んでいた。明治40年(1907年)に生まれた長男の曉をはじめとして、満江、實(夭逝)、茂(戦死)、清、睦子、美秀、禄郎、三恵子の6男3女をもうけた。 明治41年(1908年)12月、総房水産株式会社(資本金5万円)を設立し、営業部長となる。日露戦争の戦費調達のためヨードの副産物の食塩が専売制になったうえ、日露戦争による需要がおさまったことで、政府はヨード業者の統制を目的に合併を推奨してきた。そこで矗昶と安西直一は、この機に乗じて千葉県内のヨード業者を半ば強引に大同団結させたのである。社長に森為吉、専務に安西直一が就いたが、実務は矗昶が取り仕切り後に常務となった。経営は順調で、第一次世界大戦による好況をうけて大正6年(1917年)には資本金150万円、海外に製品を輸出するまでに成長したが、翌年大戦が終結すると反動不況で一転経営危機に陥り、翌年東信電気株式会社に吸収合併される。
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ヨード製造
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その頃ちょうど海水浴が流行しはじめ、葉山の一帯は静養地として人気を集めるようになる。そこで母なかと妻テルは、蛎殻町(米相場の中心地)へ入り浸りの三郎助に代わって部屋貸しを営むことになった。たまたま大日本製薬の技師で村田春齢という人が家族連れで逗留し、なかの相談に応じてかじめ焼きを勧めた。早速なかはかじめを焼いて沃度灰を作り始める。明治23年(1890年)には、三郎助は家財のほとんどを米相場につぎ込んだ挙げ句ほとんど無一文となって葉山へ戻り、母と妻が始めた沃度灰事業を手伝うこととなる。 沃度灰事業は順調に進展し、三郎助は三重から房総に至るまでカジメを買い付けて廻り、戻るとかじめ焼きをこなした。弟の忠治も明治27年(1894年)に一旦貿易会社に就職するも、辞めて技師として管理や研究にあたった。この頃になると日本中でかじめ焼きが行われ、生産過剰となったヨード製品は輸出されるようになる。明治29年(1896年)諸外国のシンジケートによりダンピング攻勢が仕掛けられるが、数年をかけてこれを退けることに成功する。明治37年(1904年)には日露戦争に伴う需要増により莫大な利益を上げた。その後間もなくして、母なかは明治38年(1905年)10月14日に没する。 日本のヨード業界は房総の加瀬忠次郎に始まり、くわえて棚橋寅五郎と鈴木三郎助とで三分していたが、この頃には鈴木が最も勢力を伸ばしていた。明治39年(1906年)に関東沃度同業組合を組織して理事長に就任し、翌明治40年(1907年)には加瀬・棚橋・鈴木が大同団結して日本化学工業を創立した。日本化学工業は、大倉喜八郎を社長に頂き、鈴木が専務、加瀬が常務、棚橋が技師長となった。鈴木はマッチの原料となる塩素酸カリウムの製造などへの事業拡大を提唱するが、大倉を始め他の経営陣とは意見が合わなかったため明治43年に専務を辞して株を売り、その巨利を元手に再び独立事業を営み始める。
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