鈴木家の母として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 07:12 UTC 版)
夫亡き後は、遺された子供たちの教育に熱心であった。子供たちには「おん身たちは早く父上に別れて不幸せの子だ。しかしお母さんが父上に代わって、おん身たちをこれからしっかり教育する覚悟をしている。おん身達はこの母を父上と思って、いいつけに背いてはならぬ」と、涙ながらに諭していた。三郎助は味の素の創業後に、社史で「この時のことは今でも忘れない…その時、赤ん坊の忠治でも霊妙な感じを受けただろう。何しろ母のあれくらい真剣な態度というのは、ちょっとその後見ない。何だか恐ろしいような気がした」と振り返っている。 次男の忠治が横浜商業学校に進学したときも、鈴木家は経済的な危機に瀕していたが、ナカが英断して、質屋で資金を工面して進学させた。三郎助は猪突猛進、忠治は地味な学究肌と、兄弟の性格は対照的であったが、三郎助が物事に進みすぎて退けなくなると、「忠治が承知しよらんで困ります」と忠治に押しつけ、忠治は「兄はあの気性ですから涙もろくて」と後処理する名コンビであり、こうした結束の強さもまた、ナカの教育の賜物であった。 三郎助の妻にテルを選んだこともまた、ナカによる夫亡き後の鈴木家再興の策の一つだった。テルの実家は名高い呉服屋であり、当時の鈴木家とは家柄が不釣合いにも思われたが、ナカの実家が豪農であったこと、さらにナカの積極的な働きかけもあって、縁談が成立した。三郎助が投機に明け暮れ、資金調達にテルの着物まで質に入れると、テルは実家から離婚を勧められたが、「たとえ乞食に落ちぶれても、里方へ戻る気はありません」と、きっぱりと断った。ナカは、テルが期待通りの女性であったことから、テルの妹を忠治の妻に迎え、このことで兄弟と家庭の仲は一層、堅いものとなった。ヨード製造にあたっても、ナカとテルは二人三脚で取り組んでおり、嫁姑の確執どころか、真の同志といえた。初めてのヨード抽出に成功した日、ナカとテルは、薄暗い作業場の中で手を取り合って喜んだ。 ナカの没後も、三郎助は生涯にわたってナカヘの感謝を忘れることはなく、「沃度(ヨード)製造の事業は、母が起しそして成功させてくれた」と語り、常に鈴木家の成功を母の創意と努力の賜物としていた。三郎助の没後にも、鈴木家ではナカに対して、家業の祖として大きな尊敬が払われた。
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