御三階櫓
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御三階櫓は、享保13年(1728年)に書かれた城絵図によれば独立式層塔型3重4階である。二ノ丸の東北隅に建てられ、現存当時は「お三階」と呼ばれていた。慶長6年(1601年)廃城となった岐阜城山頂にあった天守を移築したものと伝えられ、絵図面からは、東西面と南北面とで柱間寸法に違いがあるなど改変の跡と見られる構造が覗える。 享保13年に落雷による大火で焼失し、そのまま廃藩置県を迎える。現在は同地に岐阜地方気象台がある。
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御三階櫓
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水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれる三重櫓であり、1764年(明和元年)に焼失した当時は銅板葺であったが、以前は茅葺であり極めて簡素であったという。焼失後、1766年(明和3年)に再建され三階櫓という実質上の天守となった。2代目の御三階櫓は、外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で、櫓台はなく、地面に敷かれた礎石の上に建っているものであった。下の部分、一階二階部分は海鼠壁であり、三階四階五階部分が白壁で、外見は三層、中身は五階であった。昭和戦前期までは残っていたが、1945年(昭和20年)8月2日の水戸空襲により焼失した。なお、空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した天守相当の建築のうち再現されていないのは現在は水戸城だけである。
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御三階櫓
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本丸南隅にあり、創建当初は再建時のものより一回り大きい規模であったが、外観意匠などは不明である。創建当初の平面規模は、初重から9間×8間・6間×5間・4間×3間であったという。宝暦年間(1751年 - 1763年)に描かれた『宝暦御城真景図』では、初重西面に格子窓を持った千鳥破風のような破風1つ、南面に3つの格子窓、3重目に華頭窓と外廻り縁高欄を付けた層塔型に見える背高な三階櫓が描かれ、北側に2重櫓まで続く多門櫓が描かれ、東側に続櫓と御金倉まで続く多門櫓が描かれている。 再建時のものは、層塔型3重4階で初重から5間四方・4間四方・3間四方・3間四方の平面規模であり、最上階には外廻り縁高欄や四方の壁には華頭窓があったとされ、本丸北西隅にあった3重の角櫓とは渡櫓で連結され、御三階櫓の東には続櫓が伸びた複合連結式であった。「豊後岡城全景」と書かれた明治初期に撮影された古写真では、廻り縁高欄や軒唐破風が確認でき、北側に、切妻屋根を持つ3重の櫓が渡櫓によって連結され、東側の続櫓から御金倉の間には土塀が見られる。 秀成創建の御三階櫓は明和6年(1769年)若しくは明和8年(1771年)に風雨と地震により崩壊し、明治初期に撮影された御三階櫓は安永3年(1774年)に再建された姿である。
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御三階櫓
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御三階櫓は1632年(寛永9年)に建てられた複合式層塔型3重3階の櫓で、当時は「三重御櫓」と呼ばれた実質的な天守であった。石垣上端に余裕を持たせ付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通する。黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して窓を小さく開いている。この三重櫓は1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争によって焼失した。 現在の御三階櫓は1991年に復元された物である。復元天守は昭和期に多数造られたが、それらはみな鉄筋コンクリート造で、外観のみ元に復したもの(外観復元)であった。白河城の三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、現在でも数少ない木造復元天守の1つである。戊辰戦争の激戦地となった松並稲荷山の杉を使って復元をしており、中に入り柱をみると弾傷が確認できる。
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