土井家(第1期)の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 01:19 UTC 版)
永井家の後、下総国佐倉より16万2000石で入封した。利勝は徳川家康の落胤とする説がある人物で、家康の時代から徳川家に仕え、徳川秀忠・家光の時代に大老・老中として幕政を統括した人物である。古河では家康を縮小したような人物であるとして「小家康」と称された。利勝は家臣団編成と組織の構成に尽力し、天守閣(ただし江戸の将軍=天守様という事から「御三階櫓」と称して天守の呼称は使わなかった)の造営などを行なって藩政の基礎を固めた。 利勝の嫡男で第2代藩主の利隆は暗愚だったと伝わり、若年寄罷免に始まり、およそ藩主にふさわしくない不行跡が多かったという。 孫の土井利益のとき、志摩国鳥羽へ移封(本来ならば無嗣断絶のところであったが、利勝の功績などから許されて存続した)。
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土井家(第2期)の時代
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肥前国唐津より土井利里が入る。このとき藩校・盈科堂も古河に移転した。土井家は80年余前ぶりに古河に戻ったことになるが、以後7代にわたって、幕末まで藩主として定着したため、歴代藩主の中でも土井家が代表格となる。古河歴史博物館には、古河藩の歴代藩主を伝える様々な展示物が今も保存されている。 古河周辺以外にも中世には自治都市として栄え、大坂夏の陣では徳川家康の本陣が置かれた摂津国住吉郡平野郷(現在の大阪市平野区)も藩領とされており(現在の大阪市立平野小学校のあった所に陣屋敷が設けられた)、幕府内でも重要視されていたことがうかがえる。
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