土井家領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:01 UTC 版)
代わって大野には、幕府初期の大老土井利勝の四男の土井利房が下野国内から封じられた。利房は天和3年(1683年)閏5月25日に死去したが、その後の土井家の藩主によって藩政の基礎は固められた。 天保年間に入ると飢饉が藩内を襲い、藩財政は大いに逼迫した。このような中で第7代藩主・土井利忠は財政再建を主とした藩政改革に取り組んだ。天保13年(1842年)に始まった改革令を「更始の令」という。生産性の向上・教育制度の普及・有能な人材の登用・藩借金の整理などを行なった結果、改革後8年にして利忠は借金を処理することに成功した。安政5年(1858年) 幕府より北蝦夷地開拓の許可を得た。利忠は藩営病院の設立、西洋軍制の導入、種痘の実施、有能な人材の藩校就学の徹底と遊学の奨励など、積極的な改革を行なって多くの成功を収めた幕末期の名君であった。 藩政改革には内山七郎右衛門良休・隆佐良隆兄弟も尽力した。大野藩では特産品を作ることを奨励し、全国各地に藩営の取次店「大野屋」を置いて販売していたほか、大野屋の商品輸送や蝦夷地との往来のために西洋式帆船の大野丸を運航させた。七郎右衛門良休は「大野屋」の開設や銅山経営などで手腕を発揮し、万延元年(1860年)に家老職に就いた。隆佐は蝦夷地開拓や「大野丸」建造、蘭学の振興、軍備の刷新に努め、文久3年(1863年)に家老職と軍事総督を命じられたが家老職は辞退している。 江戸後期の大野藩は、特に西洋の先進技術の研究・摂取に熱心であった。石高4万石の小大名でありながら、藩を挙げて蘭学の原書や辞書を翻訳しており、当時の藩士や武家の子弟たちは自らも写本に励みながら、最先端の西洋の学問を学んだ。これらの洋書および翻訳の和書は、現在は福井県立大野高等学校に所蔵されている。 文久2年(1862年)に利忠が病で隠退した後はその三男・土井利恒が藩主となる。利恒は明治2年(1869年)の版籍奉還で大野藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大野藩は廃藩となって大野県となる。
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