三階櫓とは? わかりやすく解説

三階櫓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:41 UTC 版)

新発田城」の記事における「三階櫓」の解説

天守はなく、本丸北西隅に三重上げて「三階櫓」と呼んでいた。幕府遠慮し天守公称しなかったが、三階櫓は新発田城における実質的な天守であった承応3年1654年)に創建されたものは、寛文8年1668年)の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは延宝7年1679年)に再建されたものである。『正保城絵図』では二重櫓だが、他のよりも大きく描かれている。

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三階櫓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:14 UTC 版)

熊本城」の記事における「三階櫓」の解説

往時には小広間西三階櫓月見櫓本丸東三階櫓飯田丸三階櫓長櫓上三階櫓戌亥櫓未申櫓櫨方三階櫓森本櫓の9基の三階櫓があった。構造は小広間三階櫓を除き2重3階二重櫓であった小広間西三階櫓 小広間西三階櫓(こひろまにしさんがいやぐら)は本丸南西隅にあったである。他の三階櫓と異なり唯一3重3階造りになっている上記熊本城略図記載がなく、細川忠利入部時に増設された石垣の上二様石垣)に建てられており細川氏新設し可能性がある。形状は小広間二階西端望楼部を増設したような体構造となっており、本丸御殿とは東西2棟の続繋がっていた。明治期西南戦争焼失するまでは鎮台司令部置いてあり、内部御殿造りであったようである。 月見櫓 月見櫓(つきみやぐら)は本丸南東端にあったである。内部2階望楼乗せた造りであった望楼部は宝形造屋根を持つ正方形で、総塗込め大きい窓を備えるなど、名称の通り観月適した軍事色の低いである。本丸御殿には南北2棟の続繋がっていた。西南戦争焼失している。 本丸東三階櫓 本丸東三階櫓ほんまるひがしさんがいやぐら)は本丸東にあったである。享保19年1734年)に作成された「肥州録」には三之門五階櫓記されているが、明和6年1769年)の「城内御絵図」には三階記されている。この35年の内に三階櫓へと改築されたようであるが、現時点では改築理由正確な年月については不明である。東竹之丸より本丸東口の防衛拠点であり他のから独立していたが本丸御殿とは三之櫓門繋がっていた。西南戦争時の火災焼失している。 飯田丸三階櫓 飯田丸三階櫓(いいだまるさんがいやぐら)飯田丸南口にあったである。竹之丸から天守方面を望むと天守正面位置するところに建っており、櫓門通じて西竹之丸脇五階櫓と繋がる南側の重要拠点であった西南戦争罹災免れていたが、その戦後まとめて陸軍により破却されている。 長櫓上三階櫓 長櫓上三階櫓(ながやぐらうえさんがいやぐら)は数寄屋丸の西面にあったである。数寄屋五階櫓から数奇屋櫓門への多聞櫓上に、望楼部を増設したような体構造となっていた。南大手門を攻撃する敵を横撃する位置にたっており宇土櫓並び本丸西面の重要防衛拠点であった鎮西鎮台城内司令部置いた後、数寄屋五階櫓一緒に他の先駆けて破却されている。 戌亥櫓 戌亥櫓(いぬいやぐら)は西出丸北西にあったである。構造未申櫓同一で、同時期に建設されたものと思われる安永8年1779年)に修復が行われた際に、棟札慶長7年1602年完成当時の名称は「大黒矢倉」と記載されてあったとの記録残っている。鎮西鎮台城内入った後、司令であった桐野利秋指示により西出丸石垣ごと取り崩され戌亥櫓破却されている。平成15年未申櫓一緒に木造復元された。 未申櫓 未申櫓ひつじさるやぐら)は西出丸南西にあったである。構造戌亥櫓同一で、同時期に建設されたものと思われる鎮西鎮台城内入った後、司令であった桐野利秋指示により西出丸石垣ごと取り崩され未申櫓破却されている。平成15年戌亥櫓一緒に木造復元された。 櫨方三階櫓 櫨方三階櫓(はぜかたさんがいやぐら)は西出丸北東にあったである。西出丸の他の三階櫓と異なりL字型中心部望楼載せた形状となっている。名称は、細川藩期に西出丸の当のある一角に、櫨方会所(藩の専売品である取扱う部署)が置かれたことに由来する西南戦争前に鎮台により破却されている。 森本櫓 森本櫓もりもとやぐら)は三の丸北西にあったである。本丸からは最も離れたところにある多重で、西に向かって広い熊本城のほぼ西端にある重要拠点である。名称は加藤清正重臣森本一久由来し古くには「森本義太夫預かり三階櫓」と呼ばれていた。明和7年1770年)に城下からの火災類焼しその後再建されずに明治迎えた

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三階櫓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:13 UTC 版)

鳥取城」の記事における「三階櫓」の解説

天球丸南東にあり、二重の多聞櫓廻縁持たない望楼載った特異な形をしていた。従来慶長期の大改築の際に建造されたと考えられていたが、近年になって発見され池田長吉時代鳥取城図にはその姿は描かれていないため、池田光政元和年間行った大改築時に建造されたと考えられている。二の丸層塔型の御三階櫓並び立っていたが、石黒火事焼失し以後再建されなかった。近年の発掘調査で、この三階櫓の礎石となる8間×4間の石列が発見された。

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