三階級制覇失敗〜引退へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 02:29 UTC 版)
「シュガー・レイ・ロビンソン」の記事における「三階級制覇失敗〜引退へ」の解説
1951年7月10日、英国ロンドンで、欧州ミドル級チャンピオンのランディ・ターピンと対戦、15回判定負けで世界ミドル級王座を失う。欧州各国で無敵の強さを見せつけていたロビンソンを破り、王座を英国にもたらしたターピンは、英国の国家的ヒーローとなる。9月12日、ニューヨークのポロ・グラウンズに6万大観衆を集めて行われたダイレクトリマッチで、ランディ・ターピンに10回TKO勝ち、世界ミドル級王座奪回。同王座2度目の獲得。 この年、1942年以来2度目のリングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された。ラモッタ戦の死闘、ターピンからの王座奪回と、ロビンソンの劇的なキャリアがひとつのピークを迎えた一年であった。 1952年3月13日、カール・ボボ・オルソンと2度目の対戦に15回判定勝ち、同王座防衛に成功。4月16日、映画「傷だらけの栄光」で有名な、元世界ミドル級チャンピオンのロッキー・グラジアノに3回KO勝ち、2度目の防衛成功。この試合後、ロビンソンは三階級制覇を目指し、ミドル級王座を返上すると表明。 6月25日、世界ライトヘビー級チャンピオンのジョーイ・マキシムに挑戦、13回TKO負けで王座奪取ならず。ヤンキー・スタジアムで行われたこの一戦、ロビンソンは体格のハンデをものともせず、優勢に試合を進めたが、高温(39度)の気象のため徐々に体力を消耗。10回に高温に耐え切れなくなったレフェリーが交代するハプニングが発生。13回終了後、ロビンソンは熱中症のためコーナーから立ち上がれなかった。ロビンソンはこの試合後、引退を表明した。 引退後は、歌手やタップダンサーとしての活動、及びショービジネス業を始めるが、あまり上手くいかず、1954年には復帰へ向けたトレーニングを開始する。ロビンソンは自伝でこの時のことを、ダンサーになるためのトレーニングはボクシングで行ったどんなトレーニングよりも厳しかったと述べている。
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