三隈の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 09:55 UTC 版)
7日午前3時30分頃、三隈と最上は索敵行動中のSBDドーントレス2機と遭遇し、三隈が1発被弾した三隈と最上は午前5時、荒潮、朝潮と合流した。最上を護衛し、4隻は速力14ノットで西方への退避を続けた。午前6時45分、三隈は連合艦隊司令部に被弾を報告した。 この日は穏やかな天候で、少し低い雲がかかっていた。午前8時、ホーネットなどの索敵機が遁走する4隻を発見した。米第16任務部隊はホーネットからF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機、エンタープライズからワイルドキャット12機、ドーントレス31機(+艦攻3機とも)を発進させた。 同時刻、崎山艦長は米軍機が触接すると『敵水偵二機触接、附近ニ水上艦艇アルモノノ如シ 我敵空母水上艦艇ノ追躡ヲ受ケツツアリ 今ヨリ「ウェーキ」島ニ向フ 地点「ウェーキ」三〇度七一〇浬』と連合艦隊司令部に報告し、最上に朝潮と荒潮の護衛をつけて北の第二艦隊に向かわせ、三隈はウェーク島基地航空隊の活動圏内に引き込むため28ノットで西に向かった。連合艦隊司令部は第二艦隊に救援を命令し、近藤中将が攻略部隊を率いて南下したが、駆逐艦の残燃料の関係で20ノットしか出せなかった。 午前10時、ホーネットの攻撃隊が最上を攻撃し、後部砲塔が破壊され、艦中央部で火災が発生した。続くエンタープライズの攻撃隊は三隈を集中攻撃し、さらにホーネットの第二波攻撃隊が最上と三隈を攻撃した。エンタープライズ隊は三隈に1,000ポンド爆弾命中5発、至近弾2発、ホーネット第二波隊は三隈に1発、最上に6発命中と報告した。 三隈は3番砲塔、右舷機械室、左舷後部機械室に直撃弾を受け、破片で艦橋の崎山艦長が重傷を負った。機銃砲座の弾薬が炸裂して火災が発生し、さらに魚雷が誘爆して大爆発を起こした。煙突にも直撃弾があって白煙が噴出し、三隈は洋上で完全に停止した。午前10時58分、救援に向かった朝潮が『三隈大爆発見込なし』と報告した。 艦の指揮権を継承した高島秀夫副長は総員退去を命じ、脱出用の筏を作らせたが、高島副長は爆弾の直撃で戦死した。空襲下で朝潮と荒潮が救援に駆け付け、接舷した荒潮は乗員240人を収容したが、後部砲塔に直撃弾を受けて多数の死者を出し、作業の途中で撤収を余儀なくされた。朝潮と荒潮はカッターボートなどで漂流する乗員の救助を続けたが、被弾した朝潮は戦死者22名・重傷者35名を出した。 戦闘の続行が不可能になり艦が放棄されてなお、三隈は洋上に大破した艦姿をとどめていた。戦果の確認のためエンタープライズのドーントレス2機が飛来し、三隈の最期の姿を至近距離で撮影した。 米軍のある艦攻電信員兼機銃手は、三隈を『屑鉄とガラクタでいっぱいの巨大なバスタブ』と表現した。 空襲の危険が去った日没後、朝潮が残る乗員の救援と三隈の処分に向かった。しかし艦影を発見できず、『三隈所在海面に至りしも艦影を認めず。付近捜索すれども空し』と報告した。米軍も、三隈の沈没の瞬間を視認していない。三隈機関科員の石川健一は「日没直前に沈下をはやめたのち左舷に転覆し、沈没した」と証言している。 6月8日午前、第二艦隊は三隈の生存者を乗せた最上、荒潮、朝潮と合流した。生存者は熊野と鈴谷に移乗した。崎山艦長は鈴谷移乗後に死亡した。連合艦隊の参謀長宇垣纏少将は、陣中日記戦藻録に以下のように記述した。 最上及八驅逐隊も損傷の身を以て、攻略部隊の前程を西方にかわり、其の収容を為すを得たり、一時は全滅かと危ぶまれたる之等が三隈の犠牲に於て事済みたり、最上は潜水艦回避に当り三隈と衝突航行不能なりしも、逐次修復して、二〇節迄出し得るに至る。三隈は損傷なく専ら最上の援護に当たりしつつありしに其身反りて斃れ、最上の援護の目的を果たす。右両艦の運命こそ奇しき縁と云ふべく、僚艦間の美風を発揮せるものなり — 宇垣纏、宇垣纏『戦藻録』146ページ 6月9日、米潜水艦トラウトが漂流する救命筏から2名の三隈乗組員を救助した。当初19名が筏に乗っていたが、最終的に2名になったという。8月10日、三隈は軍艦籍から除籍された。12月8日、山本五十六連合艦隊司令長官はバタビア沖海戦における3隻(最上、三隈、敷波)の活躍に感状を与えた。 艦名は海上自衛隊の護衛艦「みくま」(初代、2代目)に継承された。
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