西出丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:14 UTC 版)
西出丸は数寄屋丸、平左衛門丸の西面北面をL字型に守る郭。清正が肥後一国国主になった以降に縄張りが始まったと見られ、他の城内の中小規模の複雑巧緻に配された郭と違い、直線的な高石垣、当時の火縄銃の射程を超える広大な堀で区画された巨大な郭である。加藤清正は西出丸が完成した時に「この郭だけで100日は防禦でき、私が日本のどこに居ても城に戻れる」と豪語している。郭は西南北の大手櫓門が内枡形を形成しそれにより更に三分割されている。南側は西・南大手門で区切られ藩政時代は奉行所が入っており奉行丸と呼ばれていた。北側の突出部は北大手門で区切られていた。藩政時代は櫨蝋を扱う役所があり櫨方とよばれていた。残った部分はそのまま西出丸と呼ばれており藩政時代は狭義にはここの部分だけ西出丸と呼ばれていた模様である。広大な面積を活かし年貢米を収める米蔵が多数築かれていた。明治維新後、鎮台が狭義の西出丸と奉行丸は石垣を崩し近代堡塁が築いた。西南戦争時には砲台として大いに活躍し、空堀は鎮台家族の避難場所として利用された。西出丸と二の丸の間の空堀は元はv字型の薬研堀であったが、1953年の熊本水害の廃棄物を投棄され、更に1960年の熊本国体の際にテニス会場として整備された(L字型の北側にハードコートの跡が残っている)為、半ば埋め立てられていた。1990年代の西出丸復興整備の際、西側は元の薬研堀に戻されたが、掘り返しの為、重機が入り底が踏み固められて雨水が残るようになり一部水堀の様になっている
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