御三家の台頭
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1964年秋の東京五輪終了後、国内では日本代表コーチを務めていたデットマール・クラマーの提言を受け、トップレベルの全国リーグ設立に向けた動きが始まった。11月26日、28日にかけてJFAの理事長を務める竹腰重丸の下に協会・大学・企業の関係者が集まりリーグ設立の是非を問う会合が行われたが、JFAは終始及び腰だったとされる。この後、クラマーの教え子にあたる長沼健や平木隆三、態度を鮮明にしないJFAに代わって主導的役割を果たし、企業側のまとめ役となったのが古河出身の西村章一だった。 関東では日本鋼管、三共、関西では田辺製薬、日本ダンロップ、湯浅電池などの有力企業が参加に難色を示す中、古河電工、三菱重工、日立製作所の関係者が集まり3チームだけでも全国リーグ設立に踏み切ることで合意。3チームの本社が東京・丸の内にあったことから「丸の内御三家」と称される由来となった。同年12月25日に行われた設立準備委員会では御三家に加えて中国地方の東洋工業、九州地方の八幡製鉄の関係者が集まり、全国リーグの骨格が定まった。 翌1965年、国内のアマチュアスポーツ界として初の全国リーグとなる日本サッカーリーグ (JSL) を創設。初代総務主事を西村(古河)、常任委員を耳野篤広(日立)、本間良定(三菱)、西本八寿雄(古河)、重松良典(東洋工業)が務め、これに古河出身の長沼、平木らが選手兼任の形で初期のリーグ運営にあたった。同リーグはJFAの組織下に置かれたが、実質的に独立組織として運営され、協会内および日本サッカー界の新興勢力となった。
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