御三卿家の特色
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御三卿の「家」としての性格は、江戸時代の他の大名家とは明らかな相違が認められる。幕府からは各家の当主に10万石が支給されていたが、領地は日本各地に分散して存在しており、これらの領地の支配は独自の代官所によって行われた。 例として、一橋家の大坂川口陣屋や備中国江原陣屋、越後国金屋陣屋など、田安家の摂津国長柄陣屋、甲斐国田中陣屋などがある。また、家老以下の家臣団も主に旗本など幕臣の出向によって当主に付属する形で構成されていた。このように、御三卿は独立した別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の家族・身内として認識されており、社会的にも経済的にも宗家に依存しており、独立した藩が置かれることはなかった。ただし、田安家と一橋家の両家は明治元年(1868年)に立藩している。 家政を幕府に委任したことはまた、御三卿間の対立や幕府内の政争を激化させたという指摘もある。たとえば御三家や甲府徳川家、館林徳川家の当主は他藩藩主と同様に自らの所領と領民を持ち、家臣団を統括して藩政や家政を独自に運営し、かつ尾張・紀州両藩の藩主は参勤交代で隔年の参府と領国下向を繰り返さなくてはならない。水戸藩主は常時定府で巷間で「副将軍」と呼ばれたが、それでも領国経営の必要はあり、かつ定府ゆえの紛糾が絶えなかった。しかし御三卿は常時江戸城内にあって、領国経営や家政運営の必要がなく、実質上は何もすることがなかった。しかも江戸城中においては、実際の政治の担い手である老中や大老よりも上位の席次である。このため幕府の政治に黒幕として関与することが可能で、実際それに執着するようになり、その結果将軍の跡目争いの絡む政争が激化したといわれる。 御三卿当主は常に存在しているわけではなく、不在のまま家だけが存続することが許されていたことも、他の家との大きな違いである。これを明屋敷(あけやしき)といった。藩主が死亡して家督相続者を欠いた場合には藩が改易されることが定められていたが、御三卿はそもそも藩ではなく、領地は幕府が経営、屋敷地は幕府が支給、家臣団は幕臣の出向という形をとっていたため、家督相続者を欠いた場合でもその家を収公する必要性がなかったからである。 そうした背景もあって、御三卿の当主はその家の相続自体を必然の目的とはしないことも大きな特色だった。したがって御三卿家では庶子はもちろん、嫡子や当主ですら他家への養子に出されることがあった。さらに松平定信(田安家 → 久松松平家庶流)や徳川昭武(清水家 → 水戸家)などのように、他に適当な養子先があれば、たとえ本家が明屋敷となっても養子先の相続を優先させるという形がとられた。明屋敷となっても、いずれ誰か適当な徳川家の血筋の者がいた際に養子入りさせて家を再興すればよかったからである。 このため、一橋家の宗尹の血筋が一時は代々の将軍と御三卿・水戸家以外の御三家を含めた親藩のほとんどの当主を独占するに至ったが、幕末において宗尹の血筋は田安家でしか続かず、逆に御三家から庶子や隠居した元当主が入って一橋家や清水家を相続するという、創設当初には想定し得なかった事態となった。宗尹直系が絶えた一橋家の当主には慶喜が水戸家から入り、慶喜が将軍を継いだ後は、元尾張藩主で隠居の身であった徳川茂徳が茂栄と改名して一橋家を継ぎ、さらに慶喜の弟の昭武が明屋敷だった清水家を継いでいる。特に慶喜と昭武の祖父徳川治紀は女系ながら2代将軍徳川秀忠の血を引いている。茂栄もさかのぼると水戸家の血を引いており、御三卿のうち二家が(将軍家や尾張家と共に)吉宗直系でない水戸家の血筋で占められることになったのである。なお、御三家からは当主本人だけでなく藩士も家臣として転属してきている。 御三卿の禄高10万石と家格維持のための支出は、次第に幕府財政を圧迫することとなった。これらの負担の軽減から、田安家と一橋家の両家は、それぞれ田安藩と一橋藩という形で明治元年(1868年)に立藩したが、いずれも翌明治2年(1869年)の版籍奉還の際、他藩の廃藩置県に先立って廃藩となり、両藩主は知藩事には任じられず、家禄を支給されることとなった(田安家は3148石、一橋家は3805石)。清水家は、当主昭武が明治元年当時は日本を出国中だった上、帰国後に水戸徳川家を相続して当主不在となり、立藩することはなかった。明治3年(1870年)に清水家の家督を相続した篤守(昭武の甥)も、家禄2500石を支給されるにとどまった。
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