田安家とは? わかりやすく解説

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たやす【田安】

読み方:たやす

[一]姓氏の一。

[二]徳川御三卿の一。8代将軍徳川吉宗次男宗武が江戸城田安門内に屋敷与えられたのに始まる。

[補説] 「田安」姓の人物
田安宗武(たやすむねたけ)


田安徳川家

(田安家 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/06 10:09 UTC 版)

田安徳川家
本姓 称・清和源氏
家祖 徳川宗武
種別 武家
華族伯爵
出身地 武蔵国江戸
主な根拠地 武蔵国江戸
東京市芝区三田綱町
著名な人物 徳川達孝徳川宗賢
凡例 / Category:日本の氏族

田安徳川家(たやすとくがわけ)は、清和源氏新田氏支流と称する徳川宗家の分家にあたる、武家華族だった家。江戸時代中期に御三卿の一家として創設され、単に田安家とも呼ばれた。江戸期には独立した大名家ではなかったが、明治維新直後に田安藩維新立藩し、廃藩を経て伯爵家に列した[1]

概要

田安徳川家と御三卿の成り立ち

北の丸公園
旧江戸城(現・皇居)田安門
2009年7月13日撮影

江戸幕府第8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とする。宗武は享保14年(1729年)に非嫡流ながら徳川姓を許され、合力米3万俵を与えられた[1]。享保16年(1731年)には江戸城田安門内に屋敷を与えられ、これが田安屋形と称されたため「田安家」と呼ばれるようになった[2][1]。延享3年(1746年)には摂津国和泉国播磨国甲斐国武蔵国下総国のうちに10万石の賄料を給され、それ以前の合力米は差し止めとなった[2]

田安徳川家は、宗武の弟(吉宗四男)の宗尹を祖とする一橋徳川家、9代将軍家重の次男重好を祖とする清水徳川家とともに「三卿」もしくは「御三卿」と呼ばれた。御三卿は江戸幕府において御三家に準ずる家格を与えられ、御三家とともに将軍家の血統保持の役目を担った[1]。ただし、御三家のような分家独立した大名家ではなく、江戸城中に住んで「将軍の家族」としての扱いを受けた[3]

領地も幕府領から名目的に割かれているだけで支配のためのを持たず、10万石というのはあくまで賄料である[3]家老以下の主要家臣も幕臣から派遣されており、彼らは老中支配に属する[1][4]。御三卿が独自に抱える「抱入」家臣もあったが、上級役職へ登るのは困難で、幕臣となるのも極めて例外的である[2]

2代治察の後、15年ほど当主不在の時期があり、一橋家から斉匡が養子相続した[2]。その後、斉荘(11代将軍家斉十一男)、慶頼(斉匡九男。維新後再家督)、寿千代(慶頼長男。夭折)、亀之助(慶頼三男。維新後徳川宗家を継いで徳川家達を名乗る)と、吉宗の直系を維持して明治維新を迎えた[2]

また、寛政の改革を推進した老中松平定信久松松平家へ養子)は宗武の七男であり、幕末の福井藩主で維新に功があった松平春嶽(慶永、越前松平家へ養子)は斉匡の八男にあたる[2]

戊辰戦争期の田安家、田安藩の立藩と廃藩

鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍が惨敗した後の慶応4年(1868年)1月10日、幕府代官支配地、田安・一橋徳川領、京都所司代大阪城代の所領、賊徒に与した旗本の所領は収公される旨が布告され、田安徳川家の領地も最寄りの官軍藩の預かり地となった[3]。江戸に逃亡した最後の将軍徳川慶喜が、江戸城を退去して上野寛永寺で謹慎に入ると、田安家の元当主で4歳の当主亀之助の父である慶頼(文久3年(1863年)に隠居して以後は実子を当主に立てて後見していた)が代わって江戸城主となった。4月4日には明治天皇の勅使橋本実梁西郷隆盛以下官軍参謀60余人を従えて江戸城に入城し、慶頼がこれを出迎え、4月11日をもって徳川家の江戸城からの退去、慶喜の死一等を減じ水戸藩での謹慎を命じる勅命を拝受した。慶頼は、期日通り4月11日に江戸城の官軍への引き渡しを行った[5]

江戸城開城後の同年閏4月29日、亀之助は謹慎中の慶喜に代わって徳川宗家を相続することを命じられ、徳川家達と改名し、また静岡藩主に任じられた[6]。これにより当主不在となった田安家は、5月24日に慶頼が再家督した[7]

7月25日に田安・一橋両家は徳川宗家から独立した藩屏に列せられ、慶頼も没収されていた田安家の旧領の返還を許され、10万石の田安藩維新立藩した[8]

田安領のうち甲斐の所領は貢租金納化されていたが、同地では江戸期より長きにわたって苛酷な取り立てが行われていたため、明治2年(1869年)に田安家の支配を否定し天領甲府県)への編入を求める一揆が発生した。これがきっかけで翌明治3年(1870年)1月には田安家の版籍奉還決定が触出され、同年4月27日をもって田安藩は他藩に先駆けての廃藩となった[9]。各地に点在する田安藩領は最寄りの県に合併されたため、慶頼が知藩事に任命されることはなかった。

伯爵家時代の田安家

慶頼は知藩事としては認められなかったが、華族の地位は他の大名と同様認められた。また明治3年(1870年)3月に他の大名と同様、藩の現米の1割(田安家の場合は3148石)を家禄として支給された[10]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄の代わりに支給された金禄公債の額は12万3592円93銭7厘(華族受給者中59位)[11]。慶頼は同9年に死去し、正二位を追贈された[7]

慶頼の死後はその四男達孝(宗家を継いだ家達の弟)が家督を相続した。明治前期の達孝の本邸は、東京府芝区三田綱町にあった。当時の家扶は久留栄であった[12]

明治17年(1884年)7月7日に華族令が施行されて華族が五爵制となり、叙爵内規において御三卿の各家当主は伯爵と定められたため、達孝も伯爵に列せられた[13]。達孝は貴族院の伯爵議員に当選して務めた他、侍従長日本弘道会長などを歴任した。東京府多額納税者でもあった。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。勲位は勲一等[14]

田安徳川伯爵家の邸宅は、昭和前期も東京市芝区三田綱町にあった[14]

達孝が昭和16年(1941年)に死去した後は、嫡男の達成が爵位と家督を相続した。達成は海軍技術大佐だった[7]

略系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徳川吉宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〔徳川将軍家〕 田安徳川家
1徳川宗武
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2治察 定国
松山藩主
松平定静養子
定信
白河藩主
松平定邦養子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3斉匡
[注釈 1]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
匡時
世嗣・廃嫡
4斉荘
[注釈 2]
斉位
一橋徳川家
徳川斉礼養子
慶壽
一橋徳川家継承
慶永
福井藩主
松平斉善養子
5/8慶頼 慶臧
尾張藩主
徳川斉荘養子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6寿千代 7亀之助
のちに徳川宗家
徳川慶喜養子
伯爵
9達孝
頼倫
紀州徳川家
徳川茂承養子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10達成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11宗英 宗賢 宗紀
越前松平家
養子

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,山川 日本史小辞典 改訂新版、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 旺文社日本史事典 三訂版『田安家』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f 藤田英昭 2003, p. 29.
  3. ^ a b c 宝塚市史 二巻 田安徳川氏領の成立事情
  4. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 改訂新版、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 、旺文社日本史事典 三訂版『御三卿』 - コトバンク
  5. ^ キーン上 2001, p. 210.
  6. ^ 樋口雄彦 2012, p. 21.
  7. ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 161.
  8. ^ 宝塚市史 二巻 一橋・田安両徳川氏領の消滅
  9. ^ 維新前後の領主支配と農民諸階層 甲州田安領について 有泉貞夫
  10. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 19.
  11. ^ 石川健次郎 1972, p. 39.
  12. ^ 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/42 国立国会図書館デジタルコレクション 
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 70/325.
  14. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 70.

参考文献

関連項目

外部リンク



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