御三卿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 16:41 UTC 版)
御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の一門。三卿(さんきょう)とも。以下の3家が該当する。
注釈
- ^ 「御両卿」の呼び名はその後、御三卿のいずれかに当主がない(明屋敷)場合に用いられた[2]。
- ^ a b c 清水家は当主昭武が1868年12月(明治元年11月)まで日本を出国していた上、帰国以前に水戸家の相続が決まっていたため(正式な相続は帰国の翌年)当主不在となり、立藩することはなかった。
- ^ 清水家は1899年(明治32年)、当主の篤守が負債問題のため爵位を返上。1928年(昭和3年)に篤守の子の好敏が、航空分野での功績から男爵に叙されている。
- ^ ただし官職については、一橋家が刑部卿もしくは民部卿を、清水家が宮内卿もしくは式部卿を名乗ったのに対し、田安家では2代治察が大蔵卿に任じた以外は右衛門督を称している[3]。喜田貞吉は、御三卿の「卿」は公卿の地位を有することに由来するもので、八省の卿由来説は誤りとしている[4]。
- ^ 明屋敷は、田安家では1度(2代治察死去から3代斉匡が当主となるまでの14年)、一橋家では1度(9代慶喜が安政の大獄で隠居謹慎を命じられてから1862年(文久2年)に再相続するまで)[10]、清水家では4度起きた。特に清水家では将軍の庶子や庶弟をその当主に立てることが繰り返され、1924年(大正13年)に篤守の子の好敏が相続するまで実子による相続は皆無であった。また、清水家は初代重好の死後に領地や家臣団が幕府に編入されたほか[1]、1857年(安政4年)には講武所拡張のために当時明屋敷だった清水家の改易計画が出されている(田安家の反対により中止)[11]。
- ^ 松平春嶽も『幕儀参考』にて「尾・紀・水ノ三家ト違ヒ、其戸主死亡ニ至レハ、別ニ養子ヲ以テ相続スルコトナシ。幕府将軍家ニ庶子アレハ、其庶子ヲ以テ嗣カシム」と[13]、御三卿の家督相続について触れている[2]。なお、実際は田安・一橋両家の間で子弟を相互に入れているが、これについて同じ田安家出身の松平定信は養子であるととらえる一方、春嶽は『幕儀参考』で述べたように養子とはみなしていない[2]。
- ^ 「厄介」は身内を意味し[15]、すなわち部屋住みのこと。
- ^ 特に第11代将軍家斉の実父である一橋家2代治済は生前従一位准大臣にまで昇り、没後太政大臣を追贈された。
- ^ それぞれの屋敷地が所在する、江戸城内の最も近い城門の名称に由来する[2]。
- ^ 賄料が10万石となる前は、合力米3万俵が御両卿の宗武と宗尹へ与えられていた[10]。
- ^ 三殿八役は、御三卿家中における家老・番頭・用人・旗奉行・長柄奉行・物頭・郡奉行・勘定奉行の総称[22]。ただし実際は、御付切や御抱入の者も八役に就き[2]、御付人であっても八役以外を務めるなど[21]、区分による家臣の人事は厳密でなかった。
- ^ 幕末には状況が変わり、一橋家時代の徳川慶喜は幕政に名実ともに深く関わることになると、家臣と共に幕政や家領の経営に当たり、また直属の兵力の必要から領国で農兵の徴募を行った。募兵に働いた渋沢栄一や渋沢成一郎は幕臣からの出向でなく、新規に領外の豪農から士分に取り立てられて一橋家中に御抱入として加わり、慶喜の将軍就任後は将軍直臣(旗本)に転じた。また、徳川昭武は領国経営にこそ関わらなかったものの、清水家時代のほぼ全期をヨーロッパで過ごしており、幕府の遣欧使節団の代表を務めた後に留学生活を送っている。その他の当主も、幼少で家督を継いだ田安家の寿千代や亀之助(徳川家達)以外は幕政に多少なりとも関わっている。
- ^ 徳川秀忠―千姫―勝姫―池田綱政―政純―静子―一条溢子―徳川治紀
出典
- ^ a b c d e f g h 竹村誠 2013.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 北原章男 1985.
- ^ a b c d e f g 辻達也 1989.
- ^ a b 喜田貞吉 1915, p. 570.
- ^ a b c d 田中丈敏 2016, p. 20.
- ^ a b c d e 辻達也 1993.
- ^ 『徳川慶喜公伝 一』、2023年2月9日閲覧。
- ^ 児玉幸多 1987, p. 893.
- ^ 北原章男 1963.
- ^ a b 藤田英昭 2003, p. 30.
- ^ 藤田英昭 2003, p. 31.
- ^ a b c d e 藤田英昭 2003, p. 29.
- ^ 松平慶永 1939, p. 442.
- ^ 松平慶永 1939, p. 443.
- ^ 徳川慶喜一橋家を継ぐ - 茨城県立歴史館、2023年2月9日閲覧。
- ^ 『徳川慶喜公伝 五』、2023年2月9日閲覧。
- ^ 竹村誠 2009a.
- ^ 辻達也 2006, p. 346.
- ^ a b 東京都歴史教育研究会 2005.
- ^ 松平慶永 1939, p. 444.
- ^ a b c 竹村誠 2009b.
- ^ a b 林董一 1985.
- ^ 山田忠雄 1972.
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