明治から第二次大戦まで
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1869年(明治2年):旧徳川家の藩士が、牧之原台地に茶園を開く。 1871年(明治4年)8月29日:廃藩置県で静岡県に属する。 1879年(明治12年):大井川に蓬萊橋が架けられる。 1889年(明治22年)4月1日:町村制施行により、志太郡島田町、榛原郡金谷町、五和村等が発足。 4月16日:東海道本線島田駅開業。 1945年(昭和20年)7月26日:扇町普門院付近に模擬原爆が投下される(島田空襲)。
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明治から第二次大戦まで
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「東御市の歴史」の記事における「明治から第二次大戦まで」の解説
1869年3月19日 湯の道(新張から旧鹿沢温泉まで)に一番如意輪観音が建立される。 8月 百番千手観音、群馬県旧鹿沢温泉に設立される。 1870年3月17日 祢津村に騒動が起こる。 1872年9月 田中本陣に田中郵便受取所が開設される。 1873年夏目田学校(夏目田・長坂各村)が夏目田村旧堂に開校する。 進善学校(本海野・下吉田・海善寺・中曽根・大屋各村)が本海野村藤田伝右衛門宅(旧本陣)を借りて開校。 修斉学校(金井・加沢・常田・田中各村)が常田の長久寺を借用して開校。 精業学校(芝生田・赤岩・片羽・中屋敷各村)が東漸寺を借り受け開校する。 共立学校(東上田・栗林・東田沢・上深井三分各村)が栗林村普賢寺を仮校舎として開校する。 4月 鹿沢温泉道の第五十番観音が建立される。 1874年1月 祢津小学校(西町・東町・姫小沢・新屋各村)が定津院学寮を仮校舎として開校する。 7月4日 加沢学校(加沢村)が開校する。 11月23日 加沢村と祢津領加沢田村が合併して加沢村となる。/ 棗田村が夏目田村に名称変更する。 共立学校から東上田学校(東上田村)・東田沢学校(東田沢村)が独立して開校する。 明盛学校(桜井村)・惇信学校(井子・糠地村)・滋野学校(別府・原口・新屋各村)・止信学校(大石村)が開校する。 1875年1月1日 田中郵便受取所が五等郵便局に昇格する。 金井村と出場新田村が合併して鞍掛村となる。 精業学校が新築落成する。 1868年5月30日 東上田村・三分村・栗林村・中曽根村・上深井村・下深井村・東田沢村が合併して和村となる。 8月2日 糠地村・井子村・原口村・別府村・中屋敷村・片羽村・赤岩村・芝生田村・大石村・桜井村10ヶ村が合併して滋野村となる。/ 加沢村・常田村・田中村・夏目田村・長坂村・本海野村・海善寺村7ヶ村が合併して県村と改称する。 1889年 八重原村、下之城村、布下村、島川原村、大日向村、羽毛山村が合併し、北御牧村発足。初代村長に黒沢嘉兵衛。 1939年滋野小学校、遺家族への勤労奉仕を行い始める。 祢津小学校講堂竣工する。 1940年3月25日 東部実科中等学校青年学校廃止が認可される。 3月30日 東部実科中等学校が長野県小県農学校となる。 11月23日 小県農学校、勤労奉仕行われる。 11月 祢津小学校、皇紀2600年記念プール竣工する。 1942年滋野小学校、航空少年隊を結成する。 1943年3月19日 小県農学校女子部研究科、設置認可される。 田中商工会の運営が休止される。 1945年3月5日 小県農学校女子部研究科を廃止する。
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明治から第二次大戦まで
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1869年 - 浜松奉行所が開設される。 1871年12月 - 廃藩置県により、浜松県の県庁所在地となった。 1872年 - 浜松県裁判所が設置される。 1873年 - 第一番小学校(現在の元城小学校)が開校する。 1873年 - 浜松城が廃城になる。 1876年8月21日 - 浜松県が廃止され、静岡県と合併した。支庁が置かれる。 1882年 - 浜松に測候所が開設する。 1887年 - 日本楽器製造(現在のヤマハ)の創立者、山葉寅楠が初めてオルガンを製造する。 1889年2月1日 - 東海道本線浜松駅開業。 1889年4月1日 - 町制施行。敷知郡浜松町が成立した(当時の人口13,630人)。 1894年 - 浜松中学校開校(のち旧制浜松一中、現在の静岡県立浜松北高等学校)。 1896年 - 敷知郡が浜名郡に編入し、浜名郡浜松町となった。 1900年 - 日本楽器製造でピアノの製造を開始する。 1901年 - 浜松高等女学校開校。 1904年 - 浜名郡白脇村の一部を編入。 1906年 - 静岡工業試験場浜松分場が設立された。 1907年 - 歩兵第六十七連隊が浜松に設置される。 1908年 - 浜名郡浅場村の一部を編入。 1908年 - 電話が開通する。 1909年 - 浜松・二俣(旧天竜市、現天竜区二俣町)間に軽便鉄道が開通する。 1909年 - 鉄道院(旧国鉄)工場誘致の運動が起こる。 1909年 - 鈴木道雄、静岡県浜名郡天神町村で鈴木式織機製作所(現在のスズキ)を創業。 1910年 - 浜松ガス会社が設立された。 1911年7月1日 - 市制施行により浜松市となる(当時の人口36,782人)。同時に初代の市章を制定する。 1912年 - 浜名郡富塚村の一部を編入。 1912年 - 鉄道院浜松工場(現東海旅客鉄道浜松工場)操業開始。 1914年 - 浜松〜金指(旧引佐町、現北区引佐町)間に軽便鉄道が開通する。 1915年 - 浜松師範学校、浜松工業学校が開校する。 1915年 - 浜松市立病院が開院する。 1916年 - 浜名郡曳馬村の一部、天神町村の一部を編入。 1918年 - 米価などの高騰により、浜松で米騒動が起こる。 1920年 - 遠州地方の織物業が不況により、2ヶ月の総休業を行う。 1920年 - 市立図書館が紺屋町97番地に開館する。 1921年 - 浜名郡天神町村を編入。森鷗外(森林太郎)作詞・本居長世作曲の浜松市歌が発表される(2005年廃止)。 1925年 - 歩兵第六十七連隊が廃止される。 1926年 - 陸軍飛行第七連隊(現航空自衛隊浜松基地)が置かれる。軍需産業が盛んになる。 1926年 - 日本楽器製造でストライキが起きる。 1926年 - 市会議員の選挙が行われる(日本初の男子普通選挙実施)。 1926年 - 松城幼稚園が開園。 1928年 - 高射砲第一連隊が浜松に設置される。 1930年 - 昭和天皇の行幸が行われる。 1931年 - 上水道が完成し通水式が行われる。 1931年 - 全国産業博覧会が開催される。 1933年 - 浜松陸軍飛行学校が開校する。 1936年 - 浜名郡曳馬町、富塚村を編入。 1936年 - 浜松市営バスが運行を開始する。 1939年 - 浜名郡白脇村、蒲村を編入。 1939年 - 浜松保健所が設立される。 1942年 - 戦時体制下で、金属資源の回収が始まる。塩や衣料などの配給制度が実施される。 1944年12月7日 - 東南海地震が起こり、大きな被害を受けた。 1945年 - 6月の浜松空襲や、その前後の艦砲射撃により市街地の大半が焼失する。
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明治から第二次大戦まで
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「日本の交通」の記事における「明治から第二次大戦まで」の解説
明治に入ると近代国家になるために交通網を整備する必要があった。整備を進めやすいために道路よりも鉄道を優先して建設された。鉄道の建設には多くの問題や妨害があったが、品川・横浜間で仮営業が始められた後、新橋・横浜間の営業が始められた。これを契機として、官民による鉄道の建設が進められた。都市内においては路面電車や地下鉄が整備され、馬車の走行のためにガス灯の設置や舗装が進められた。しかし、地方の道路整備は遅々として進まず、幹線道路でも自動車の通行に適さない区間が大量にあった。 人力車、馬車鉄道、人車鉄道など:明治初期 平地が少なく険しい山地が多い国土→トンネル
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明治から第二次大戦まで
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明治時代に入ると鉄道が整備され、中央本線・信越本線などが敷設された。特に、養蚕業が国家の主力産業として位置付けられたため、養蚕業の盛んな地方となり、甲信地方同士の地域間交流も親密になった。現在の信州大学繊維学部は、旧制上田蚕糸専門学校(国立)が母体になっている。
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明治から第二次大戦まで
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日本初の食堂車は、1899年5月25日に私鉄の山陽鉄道(現・山陽本線)が運行した官設鉄道京都 - 山陽鉄道三田尻(現・防府)間の列車に連結した食堂付1等車である。当初は瀬戸内海航路への対抗とともに1等車の付随施設の側面が大きかった。この車両は、山陽1227 - 1229号で国有後のホイシ9180形 と考えられている。食堂営業は山陽鉄道の直営の後、神戸の「自由亭ホテル」(後の「みかど」)の請負になった。官営鉄道(国鉄)では1901年12月15日 に新橋駅 - 神戸駅間の急行2往復に連結 され「精養軒」が運営し、日本鉄道では1903年に「仙台ホテル」(現:「ウェルネス伯養軒」)の請負いによって導入された。 この当時は1・2等車(現・グリーン車)の客しか使用できず、官営鉄道・日本鉄道でも同様だった。利用区分を設定した理由として、利用者層の日常的な生活習慣などを考慮、3等車の客には当時行儀の悪い者が多かったため1・2等客に不愉快な気持ちを抱かせないようにする配慮、あるいは本来の座席より良い車両で漫然と時間を過ごすことの防止 であったとされる。その後、1903年10月から山陽鉄道では閑散時間帯には3等客への部分開放を実施。3等車の乗客が1・2等車内を通行することは禁じられ、駅に停車中に車両の外を移動することと、身なりを整えることが求められたという。鉄道院でも、1919年8月から「一部食堂車に改造を加えあるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放した。食堂車を挟んで1・2等車と3等車を分ける施策は、戦後の初期(1950年代)まで続けられた。 詳細については#連結位置も参照。 当初は上級旅客の利用が前提であったことや、和食より洋食が調理加工の幅が単純であるために、どの食堂車も主に洋食を提供する「洋食堂車」を連結していた。1906年(明治39年)4月1日から新橋 - 神戸間の3等急行列車に和食堂車が初登場した。メニューは和食が主体であったが、洋食でも一般に普及している料理は提供されており、形式が制定された際「ワシ」が用いられた。1929年に愛称が付けられた特別急行列車「富士」は1・2等車のみで編成された関係で洋食を提供していたが、3等車(現・普通車)のみで編成されていた「櫻」(さくら)では和食を提供した。そして1934年以降になると、洋食を提供する食堂車は、東海道・山陽本線を走行する「富士」・1930年運転開始の「燕」・山陽本線京都 - 下関間、1等展望車連結の急行7・8列車・東京 - 神戸間1・2等車のみの急行17・18列車(通称「名士列車」)・1937年運転開始の「鷗」のみになり、他はすべて和食堂車になった。この当時、洋食堂車は完全予約制で、あくまでも洋食専門としており、和食堂車は、和食のほかに比較的安価でかつ一般にも馴染み深い洋食となりつつあったライスカレーやコロッケなどの揚げ物は勿論、ビーフステーキなど洋食堂車でも扱う料理を提供していた。戦後以後の食堂車は、この「和食堂車」の系譜を継承していく。なお、戦前の「洋食堂車」のメニュー・営業形態は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}2015年まで運行していた「トワイライトエクスプレス」のメニューがそれに近い。[要検証 – ノート] 営業面においては、1906年の鉄道国有化で直営としたが、再び請負制になった。東海道・山陽線では「みかど」「精養軒」に大阪の「東松軒」(後の「水了軒」)が加わり、東北・常磐線では「仙台ホテル」、九州島内は門司の「日本亭」(後の1912年に福岡の「共進亭」が参入)が担当した。その後にも参入業者は増加し、サービスを競う中で東洋軒では1930年7月5日から東京駅 - 大阪駅間の不定期急行列車でウェイトレス導入を試行、翌年10月からは東京駅-下関駅間9・10列車を皮切りに本格導入された。利用者からは食堂車内の雰囲気がソフトになった事から利用しやすくなったと歓迎された反面、チップ収入減少も絡んで列車ボーイからの反発もあったという。運営は順調ではあったものの昭和に入ると利用客へのサービス停滞や収支不明瞭な業者がでるなど問題となり、1938年1月に鉄道関係者と列車食堂業者による協議会がもたれ、その中で列車食堂の経営統合を計る案が浮上した。そして9月15日「日本食堂株式会社」(のち日本レストランエンタプライズ
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