大正2年 (みずのとうし 癸丑)
年(年号) | |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 |
1913年
(大正2年 から転送)
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1913年(1913 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。大正2年。
- 1 1913年とは
- 2 1913年の概要
大正2年(1913年)
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「河内 (戦艦)」の記事における「大正2年(1913年)」の解説
1913年(大正2年)2月4日、河内の後部砲塔上に(比叡用の)110cm探照灯を臨時装備し実用実験をするよう訓令が出され、同年中はその実験を行った。探照灯は11月27日撤去の訓令が出された。 2月10日、河内(旗艦)、鞍馬、摂津、敷島、生駒、鹿島の6隻は打狗を出港し、油頭、厦門に寄港し、17日馬公に帰着。21日、河内(旗艦)、摂津、敷島、生駒、鹿島の5隻は馬公を出港し(鹿島は馬公に戻り、後に佐世保ヘ)、4隻は舟山島に停泊し、28日佐世保に帰着した。 4月11日、河内(旗艦)、摂津、敷島、生駒の4隻は仁川を出港、北清方面を航海し15日大連、16日旅順に寄港、19日旅順を出港し、22日鎮海に帰着した。 7月14日、第一艦隊旗艦を敷島へ変更し、22日河内に復帰。 10月11日、土崎港雄物川河口で上陸員を乗せた河内の第1カッターが転覆した。天候に問題は無かったが、後部から波を受け艇尾が持ち上がり舳先が左を向いた所に更に後方から波が寄せ、右舷に回転し転覆した。河内の他のカッターや敷島のカッターなどで直ちに救助が行われたが、乗艇54名中泳げない者を中心に7名死亡、1名行方不明(21日に死体発見)となった。 11月10日、横須賀沖の東京湾で恒例観艦式が行われた。この観艦式は日本海軍初めての移動式観艦式で、第一艦隊旗艦だった河内は艦隊の先頭で陣形運動の展示を行い、受閲開場では第1列の1隻目の位置に停泊した。
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