田中 長兵衛 (たなか ちょうべえ)
1858〜1924 (安政5年〜大正13年) |
【実業家】 日本で初のコークス製鉄技術を確立。挫折しかけた近代製鉄業を救った。 |
明治・大正期の実業家。江戸大根河岸の鉄金物問屋の子として生まれた。製鉄事業には素人なだったが官営で行きづまった釜石鉱山を買い取り、横山久太郎とともに再興に尽力した。84年(明治17)に認可を受け、2年間の度重なる失敗を乗り越え、コークス高炉の操業に見事成功した。1924年(大正13)第一次大戦後の不況と大震災で経営が破綻、三井鉱山に吸収された。 |
年(和暦) | ||
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 | 0才 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 | 2才 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 | 4才 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 | 5才 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 | 9才 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い | 10才 |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 | 11才 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 | 13才 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 | 13才 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 | 15才 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 | 18才 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 | 19才 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 | 19才 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 | 24才 |
●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 | 25才 |
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 31才 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 36才 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 45才 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 46才 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 49才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 52才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 60才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 65才 |
・Conder J. J. | 1852年〜1920年 (嘉永5年〜大正9年) | +6 |
・Eckeert Franz Von | 1852年〜1916年 (嘉永5年〜大正5年) | +6 |
・島田 三郎 | 1852年〜1923年 (嘉永5年〜大正12年) | +6 |
・高村 光雲 | 1852年〜1934年 (嘉永5年〜昭和9年) | +6 |
・明治天皇 | 1852年〜1912年 (嘉永5年〜大正元年) | +6 |
・Fenollosa E. F. | 1853年〜1908年 (嘉永6年〜明治41年) | +5 |
・高橋 是清 | 1854年〜1936年 (安政元年〜昭和11年) | +4 |
・田口 卯吉 | 1855年〜1905年 (安政2年〜明治38年) | +3 |
・浅井 忠 | 1856年〜1907年 (安政3年〜明治40年) | +2 |
・高木 正年 | 1856年〜1934年 (安政3年〜昭和9年) | +2 |
・快楽亭 ブラック | 1858年〜1923年 (安政5年〜大正12年) | 0 |
・妻木 頼黄 | 1859年〜1916年 (安政6年〜大正5年) | -1 |
・Bigot G. | 1860年〜1927年 (万延元年〜昭和2年) | -2 |
・内村 鑑三 | 1861年〜1930年 (文久元年〜昭和5年) | -3 |
・二葉亭 四迷 | 1864年〜1909年 (元治元年〜明治42年) | -6 |
・津田 梅子 | 1864年〜1929年 (元治元年〜昭和4年) | -6 |
田中長兵衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/17 03:10 UTC 版)
田中 長兵衛(たなか ちょうべえ)は、日本の商人・製鉄業の先駆者。明治政府が失敗し廃した日本初の製鉄所を引き受け、苦闘の末これを成功。一時は国内生産量の過半数を占めるなど、日本近代製鉄の礎を築いた。
注釈
- ^ 横山町の鉄屋は8代将軍吉宗以前の時代から代々続いているとされる。喜兵衛は長兵衛の親戚筋と推定され、彼を頼って江戸に上ったと思われる[1]。
- ^ 田中家に婿養子に入ったとも言われる。(長兵衛の本姓は新井との説も有り)
- ^ 鹿鳴館の建設に携わり、七代目小川治兵衛の作庭にも大きな影響を与えたとされる人物。
- ^ 1877年(明治10年)の西南戦争の後、敗れた西郷方の同調者が処罰されそうになったところ、鉄屋長兵衛の名刺を持っていたため難を逃れたという話もあるほどその名は知られていた[4]。同時代の侠客として知られる清水の次郎長とも交友があったと伝わる。
- ^ 荷揚げ人夫の他、大工、鍛冶、裁縫職、井戸掘り、漁師、ラムネ製造者までいた。また有馬屋が集めた人夫の中には腰に長刀を帯びて義勇兵感覚の薩摩人たちもいた。彼らは人夫として雇われながらも荷揚げ等を嫌う風があったという。
- ^ この時大倉に付いてきたのが当時記者として活動していた岸田吟香であり、記録に残る日本初の従軍記者とされる。
- ^ 荷揚げを指揮した有馬屋が薩摩の人夫に辛く当たったのを薩摩出身の帯同役人が目撃。報復で有馬屋の手代を殴りつけたところ、これに怒った有馬屋に投げ飛ばされ大恥をかいた。有馬屋はその役人から命を狙われる[5]。
- ^ 薩摩藩の賄い方を務めて以降、鉄金物商から米穀商へと軸足を移していった長兵衛は、遅くとも明治22年には「鉄屋」ではなく「田中商店」の商号を使っている[10]。
- ^ 当時の大実業家、渋沢栄一や古河市兵衛らも製鉄所の再建には二の足を踏んでおり、浅野財閥の浅野総一郎が手を上げようとした際に相談を受けた渋沢は、これを諭して思い止まらせている[11]。
- ^ 当初長兵衛に小型高炉作成費用として二千五百円を出してほしいと願いその怒りを買っていた久太郎だが、田中本店の支配人を務めていた小林弥兵衛を通じて再び嘆願。根負けした長兵衛が折れてついに挑戦する運びとなった[12]。
- ^ 鋳物の名人であり、社宅で暮らす従業員用の鉄鍋や釜などを造る鋳物場での技術指導も行った。息子の村井信平は学生の頃に東京の田中家で書生をしながら学校に通い、釜石製鉄所に長く勤め、後に横山康吉の依頼を受けて私家本「田中時代の零れ話」を著している。
- ^ 1909(明治42)年頃でさえ、東京から釜石へ行くには上野駅から東北本線に乗り花巻駅まで。そこから人力車か馬車で遠野まで行き一泊。仙人峠を徒歩または山籠か馬で越えてやっと到着[13]という様子だった。
- ^ 1889年(明治22年)度の東京府所得税番付によると大関の部に名があり、税額二百三十一円となっている[17]。その金額は明治の元勲である伊藤博文や山形有朋よりも多い。
- ^ 奇しくもこの年は同じ釜石の地で近代製鉄の第一人者として足跡を残した大島高任の没年でもある。
- ^ 2020年9月現在。
出典
- ^ a b 三枝 1954, p. 22.
- ^ 『東京府統計表 明治12年』 p.93 東京府、1882年
- ^ a b 富士製鉄釜石 1955, p. 43-44.
- ^ 三枝 1954, p. 46.
- ^ 『生蕃討伐囘顧録 明治7年』 p.607 落合泰蔵、1920年
- ^ 『台湾史と樺山大将』 p.607 国史刊行会、1926年
- ^ 『死生の境 後編』 p.648-657 博文館、1912年
- ^ 『征西戦記稿 第51−65巻』 巻六十五 p.7-8 参謀本部陸軍部編纂課 編、1887年
- ^ 『五年生の社会科 (小学生の教室文庫)』鉄屋の長兵衛 p,144-147 保育社 1956年
- ^ 『日本紳士録 第1版』 商業分姓名録 東京横浜之部 p,3 交詢社 1889年
- ^ 富士製鉄釜石 1955, p. 42.
- ^ 岡田 1957, p. 231.
- ^ 富士製鉄釜石 1955, p. 479.
- ^ 富士製鉄釜石 1955, p. 46.
- ^ 岡田 1957, p. 236-237.
- ^ 『官報』第1279号 1887年10月1日
- ^ 『栄誉鑑』 p.5 有得社 1890年
- ^ 三枝 1954, p. 33.
- ^ 鉄鋼界 1976, p. 44.
- ^ 『故田中長兵衛追賞ノ件』 内閣賞勲局 1910年(明治43年)4月25日
- ^ 『田中時代の零れ話』p.80 村井信平 1955年
- 1 田中長兵衛とは
- 2 田中長兵衛の概要
- 3 姻族系図
- 4 関連項目
「田中 長兵衛」の例文・使い方・用例・文例
- ただいまご紹介に預かりました、田中と申します。
- あの人は田中さんの紹介で入社した人らしい。
- 田中さんは誠意を示すため坊主にした。
- A社で事業開発を担当しております、田中と申します。
- 田中さんの今の説明について、もう1点だけ補足させて下さい。
- 当日は、田中、山田、そして私の3名で伺う予定です。
- 田中さんがプロジェクト予算を管理している。
- 彼は私たちの理科の先生である田中先生である。
- 彼らのうちの一人が、「田中さん、ありがとうございます。私たちは決してあなたのことを忘れません」と泣いた。
- 田中は我々の電気・技術担当のものです。
- 経理部の田中さんは、欠席です。
- 私の名前は田中です。A社で研究員をしています。
- 私の名前は田中です。A社でマーケティングを担当しています。
- 私の名前は田中です。A社で働いています。
- A社の田中と申します。
- 私の名前は田中です。私はA社で法人営業を担当しております。
- 有限会社古田水産の安全管理部の田中と申します。
- 本日より、私、田中が関東エリアの担当となります。
- 鈴木の後を引き継ぎまして、これからについては、わたくし、田中がご用命を承ります。
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