釜石製鉄所再建との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 09:00 UTC 版)
「大河平才蔵」の記事における「釜石製鉄所再建との関わり」の解説
官営の釜石製鉄所は1882年(明治15年)12月燃料木炭の供給不足、採石、運鉱作業の失敗から廃止される。廃止した釜石製鉄所の諸施設、鉄鉱石、木炭、諸機械の払い下げを受けたのは陸海軍の御用商人(金物、食糧)であった薩摩出身の田中長兵衛である。田中は同じく薩摩出身の大蔵卿松方正義の強い斡旋により払い下げを受けるが、鉄に関しては全くの素人であった。 松方は、これを機に製鉄業に乗り出すよう田中に強くすすめるが、当時の実業家渋沢栄一や古河市兵衛にしても釜石製鉄所再建に乗り出すことはやめており、技術的な問題があると言われていた釜石製鉄所を再建することは前途に多大な困難が予想され、田中は決心がつかなかった。 しかし、田中の長男安太郎は再建の可能性を求めて下調査をはじめる。安太郎も製鉄業に関しては素人であったから、当時の大蔵卿松方正義に指導者となる人物を探してほしいと懇願する。松方は指導者として大河平を任命した。1883年(明治16年)のことである。大河平は安太郎に西洋の近代製鉄理論と実地を懸命に教えた。出雲石見地方の視察にも安太郎を同行させて、日本の従来の製鉄業および原鉱について学ばせた。 そして、安太郎を中心とする田中一族は1886年(明治19年)10月釜石製鉄所において製鉄に成功する。安太郎は後に「大河平がいなければ釜石製鉄所の再建は考えられなかった」と述べている。大河平は安太郎にクルップの創業者フリードリヒ・クルップ(ドイツ語版、英語版)、アルフレート・クルップを例にとり、一民間人であっても努力をすれば製鉄業を営み、発展させていくことは不可能ではないと勇気づけたと伝わる。大河平のドイツクルップへの留学の成果は、釜石製鉄所再建にも大いに役立てることが出来たのである。
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