釜石線
釜石西線(花巻 - 仙人峠間)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:30 UTC 版)
「釜石線」の記事における「釜石西線(花巻 - 仙人峠間)」の解説
花巻 - 仙人峠(1950年廃止)間は、岩手軽便鉄道が軌間 762 mm の軽便鉄道として敷設したもので、1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて全通した。この間、終点側で部分開業していたことから、花巻 - 岩根橋間の西線と柏木平 - 仙人峠間の東線に分かれて運営を行っていた時期がある。この岩手軽便鉄道時代の西線と東線は、国有化後の路線ではすべて釜石西線側に含まれている。 仙人峠 - 大橋間は距離約4 km に対して標高差が 300 m あり、この間に仙人峠を越えなければならず、建設費の負担に耐えられないことから、鉄道の敷設を断念した。代わりに全長3.6 kmの索道(ロープウェイ)により貨物・郵便を輸送することとし、旅客は同区間約5.5 kmの山道を徒歩連絡とされた。1927年(昭和2年)には、ようやく鉄道敷設法別表第8号の2に「岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道」が追加され、1929年(昭和4年)には現在の釜石線となる路線の着工が決定した。1936年(昭和11年)に岩手軽便鉄道は買収、国有化され、釜石線となった。この時に索道も買収されて、国鉄史上唯一の索道営業が行われることになった。1944年(昭和19年)、釜石東線の開業により釜石西線(かまいしさいせん)に改称する。 岩手軽便鉄道は軌間 762 mm であったため、1067 mm への改軌が順次実施された。またこれと平行して仙人峠を越える鉄道の建設が始められた。国有化前に岩手軽便鉄道から国鉄へ依頼して行われた検討では、足ケ瀬駅と仙人峠駅の間に金山駅を設置して分岐し、仙人峠の下を長いトンネルでくぐって東側にループ線を設置し、北進してスイッチバック式の甲子駅を設置、大きく南へカーブして釜石鉱山鉄道の路線に並行して南東へ進み、唄貝駅で合流するという路線構想があった。再検討の後、1936年(昭和11年)6月に実際に国鉄が着工したのは、足ケ瀬駅から分岐して足ケ瀬トンネルで一旦気仙川流域へ出て、上有住駅を経由して土倉峠の下を土倉トンネルで抜けて仙人峠東側斜面を大きく北へ全長1280 m、半径250 mの「Ω」(オメガ)字状のカーブを描く第二大橋トンネルを通り陸中大橋駅へ降りていくルートとなった。 第二大橋トンネルは急こう配区間であり、蒸気機関車が通過するとトンネル内は煤煙でいっぱいになった。開通後、列車が頻繁に通過するようになると、煤煙がトンネル付近にあった釜石鉱業所の社宅に押し寄せ洗濯物が真っ黒になるとのクレームが出されたことから、盛岡鉄道管理局はトンネル出口に送風機と組み合わせた煙突を作ることを発案。1950年12月より模型実験を繰り返し、実際に高さ25 mの角型の煙突が作られた。 改軌工事に関しては、1944年(昭和19年)に花巻 - 柏木平間の工事が完成した。花巻駅は、国鉄の駅前にあったものが国鉄の駅へ乗り入れるように改められ、似内駅までの区間はこの時に大きく線路を付け替えられている。元の花巻駅は花巻温泉電気鉄道(後の花巻電鉄)の駅として残った。これ以降の改軌工事は太平洋戦争の激化のため、仙人峠の新線建設工事と共に中断された。この時点でかなりの部分まで路盤工事もできあがっており、新線区間の土倉トンネルも貫通している状態であった。戦後の1946年(昭和21年)にアイオン台風により壊滅的被害を受けて長期不通となった山田線の代替路線として、釜石線の建設・改築を優先することとなり、1948年(昭和23年)に工事を再開し、翌年に柏木平 - 遠野間の改軌が完成した。1950年(昭和25年)には遠野 - 足ケ瀬間の改軌が完成し、足ケ瀬 - 陸中大橋間が新線で連絡して釜石線が全通した。なおこの際、新線建設ルートから外れた足ケ瀬 - 仙人峠間は軌間 762 mm のまま、仙人峠 - 陸中大橋間の索道とともに廃止されている。これにより、国有鉄道の特殊狭軌線(軽便鉄道)はすべて姿を消した。
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