路線構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:58 UTC 版)
「名古屋高速2号東山線」の記事における「路線構想」の解説
名古屋高速は交通集中が激しい都心と6方向との相互連絡を目的として計画された。この内、都心と東名高速道路名古屋IC間で計画されたのが2号東山線である。さらに、新洲崎JCTから5号万場線として西進のうえ名古屋西JCTにて東名阪自動車道と直結し、両高速道路間の連絡路線としての使命も併せ持つこととされた。計画立案当時は東名高速道路と東名阪自動車道を直通する自動車専用道路が存在しなかったことから両高速道路間の連絡は広小路通(愛知県道60号名古屋長久手線)によるほかなく、都心の渋滞を引き起こす一要因となっていた。このため2号東山線は5号万場線と一体となって都心に用のない通過交通を平面街路から排除する役割が期された。 2号東山線がまだ具体的経路が定まっていなかった時代、建設する平面街路の候補として錦通、広小路通、若宮大通が挙げられた。これは名古屋高速の建設にあたって広幅員道路を利用して用地買収を最小限度に抑えることを原則としたことによる。しかし、都心部でありながら空間に余裕がある100 m道路が建設には最適との判断によって若宮大通が選定された。 ところが若宮大通は千種区千種通7丁目で終点となり、これ以東に広幅員道路はなく、あるのは住宅密集地帯であった。計画ではこの住宅密集地帯を縦断して東山通3丁目に抜けて広小路通に到達、以後は広小路通(東山通)を東進して名古屋ICと連結する内容であった。しかし、住宅密集地帯に高速道路を新設するには800世帯の立ち退きが必要とされ、転居後の生活再建や自動車公害、東名高速と東名阪自動車道間の通過交通による環境悪化の懸念から地域住民の猛烈な建設反対運動に直面した(詳細は名古屋市道鏡ヶ池線を参照)。加えて広小路通以東では名古屋市営地下鉄東山線と路線競合することから、地下鉄と並行して建設することでコストアップの懸念が生じ、また、都市公園たる東山公園の前を高架式で通過させることを問題視する意見もあったことから、1976年(昭和51年)の都市計画変更において四谷 - 名古屋IC間を廃止のうえ代替ルートとして四谷 - 高針JCT間を提示した。そして高針JCTにて名古屋環状2号線専用部(名二環)に接続することとされたが、当時は名古屋環状2号線の事業計画が未決定のため、確定までのあいだ代替ルートを留保することになった。 だが、1982年(昭和57年)11月の名古屋環状2号線専用部の都市計画決定をもって留保の解除は時間の問題となった。また、2号東山線は四谷までの都市計画が決定されたものの、四谷までが部分開業となったあかつきには四谷周辺で接続車両による交通渋滞が予測されることから、早急に留保解除のうえ都市計画決定を取り付けたい名古屋市の意向によって1991年(平成3年)8月をもって高針までの都市計画が決定、当該ルートが確定を見た。 また、2号東山線の構想変更は終点位置変更にとどまらず、若宮大通区間にも及んだ。当初の構想では、中区千代田一丁目(丸田町JCTよりもやや都心寄り)付近で高架橋と半地下道路の移行が行なわれる計画だった。しかし、1976年(昭和51年)に至って技術上の制約から国鉄中央線交差部の東寄りまでを高架橋として、それ以東で半地下へ移行する構造となった。 これと前後して次のような案も出された。高速1号が名古屋環状2号線経由で東名名古屋ICと東名阪名古屋西ICを直結することで、東西間の通過交通が都心部になだれ込むことから環境的負荷が高まることが懸念された。このため、白川出入口と丸田町JCT間の約1.7kmを廃止して高速1号を切断する案が1975年(昭和50年)頃に名古屋市より提案された。この区間は若宮大通のメインストリートでもあるが、よしんば当該区間が通過交通の公害から解放されたとしても、都心環状線経由で東西間の連絡は可能であることから都心環状線にそのしわ寄せが向かうだけのことであった。一応、切断を前提に道路計画の住民説明会も行われたが、説明会終了の翌月に開かれた名古屋市議会でこの取り消し区間が復活した。自民党の市議会議員が突然この復活案を出して社会党も同調、市当局は発言する機会がなく、本山市長もあえて異を唱えることもなくこの案は了承された。
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